俺の両腕が勝手に動いた。 「どうして・・なの?」 千恵を俺の胸から引き離し、彼女の瞳を見詰める。 「うん、君に恋する資格が、俺には無いんだ」 「嘘よ、絶対に嘘よ。佐藤さんとは付き合ったじゃない」 再び、俺の胸の中に飛び込みしがみつく。 「あれは、恋じゃない。それは佐藤さんも承知だ。気紛れの交際だよ」 千恵の体が固まる。 「え、・・・」 「佐藤さんには、悪いと思っている。でも、彼女は怒って…
ファミレスから五分程度だ。工場の門を開け、車を入れる。 「へ~、ここなの? 印刷会社なのね」 「さあ、降りて。事務所を開けるからね」 事務所を開け、電気を点ける。千恵は珍しそうに中を見渡す。 「金ちゃんは、どこで寝ているの?」 事務所の奥を覗く。 「ああ、その横の部屋だよ」 千恵が俺の部屋を開けようとする。 「ダメだ、中は散らかっているから・・」 止めるのを聞かず、ドアを開けてしまった…
泊まるより、一緒に弥彦へ行った方がいいと思った。 「分かった、アニキに頼んで車を借りるよ」 携帯で兄貴に電話した。会社の車は、お盆中だから使用しないという。 「千恵ちゃん、弥彦まで車で送るよ」 「え~、本当に?」 「ああ、本当だよ」 千恵が喜ぶ。内心、俺も喜んでいた。 「じゃ、近くのファミレスに行こう」 喫茶店を出た。駅ビルの中を歩く。千恵の小さなボストン・バックを俺が持つ。 「ありがと…
「それで、何時の新幹線に乗るの?」 「・・・」 俺の質問に答えず、黙ったままカップを見詰めている。 「どうして、黙っているんだい。時間に乗り遅れたら、困るだろう・・」 「金ちゃんは、ひとりで住んでいるの?」 「いいや、アニキの工場に泊まっているよ。明日か、明後日に寮へ帰る予定だから」 「そうか、・・・」 千恵は、何かを考え惑う様子。 「どうしたの?」 だんだん不安になってきた。 「うん、泊…
我を忘れ、駅に来てしまった。改札口で待つ間、自分の愚かさに悔んだ。予定の新幹線は、既に到着しているのに千恵の姿が見えない。俺は心配した。 「金ちゃん、私はここよ・・」 後ろを振り向くと、明るい笑顔で千恵が立っていた。ただ、周りを気遣う眼差しは、不安に怯えている。 「やあ、元気だった」 若い千恵らしい服装に、俺は驚き目を見張る。爽やかな水色のミニ・スカートにタンク・トップ姿。白いサンダルにピ…
俺は非情と思いつつも、先に別れ寮に戻る。しばらくして、坂本が帰って来たが、互いに話すことはなかった。 その後、一週間ほど実家の高崎へ帰る。街中を歩くと、必ずあの人の面影が甦ってしまう。憂鬱な日々に、早く寮へ戻りたいと考えた。 朝から予定も無く呆然としていた。十時過ぎ、突然に携帯が鳴り、見知らぬ番号が表示されている。俺は迷ったが、受けることにした。 「もしもし、・・・」 この声に聞き覚えが…
いや、俺は違うと信じていた。どれほど多くの女性に、心が奪われただろうか。彼女らの心が読めず、失意のどん底を味わう日々を過ごした。 「まあ、いいや。惨めな情けないことを、思い出しても仕方ない」 「ふふ・・、あら、そんなに恋をしたの。幸せね」 「えっ、俺が幸せだって?」 俺の手を握り、恨めしい眼差しを見せる。 「そうよ。私なんて、この年まで経験しなかった。最初から諦めていたもん」 「諦めるなんて…
佐藤は、一瞬言葉を選ぶために、沈黙する。俺は焦ることなく待った。 「ん~、千恵ちゃんを悲しませないで、彼女は、まだ18歳よ」 俺には、佐藤の気持ちが分かっていた。 「もちろんさ。あの旅行のとき、彼女の仕草や言葉で感じた。でも、ときめきを意識しても、心の奥に戒めていた」 「・・・」 「だから、新たな恋は決してない。それに、彼女を弄ぶつもりもない」 佐藤が俺の目を捕まえ、本心を確認する。 「分…
「私は、簡単にどうぞって、答えたわ」 千恵に驚いたが、佐藤の答えにも唖然とする。 「えっ、そんなこと、言ったのかい?」 「ええ、千恵ちゃんは拍子抜けし、憮然としていたわ」 「・・・」 俺は言葉を失う。 「だって、金ちゃんと私の仲は、恋人未満でしょう? だから、今なら平然としていられるもの」 確かに、二人の仲は複雑な関係ではない。むしろ、俺の望むことだ。 「うん、返事に窮するけど、間違いない…
バス旅行から、三日目の晩。佐藤から呼び出された。 約束の時間を過ぎても現れず、俺は引き返そうと思った。そこへ、慌てて走って来る佐藤の姿。 「今晩は~、ご、ご免なさい」 「体中を蚊に刺され、痒くて我慢できないよ。もう、帰ろうかと思った」 俺の不機嫌な様子に、身を小さく縮ませ謝る。 「出掛けようとしたら、千恵ちゃんに呼び止められたの。ご免なさいね」 千恵の名前にドキッとした。表情を隠すために…