ウイルソン金井の小説

創作小説を紹介
 忘れ水 幾星霜  偶然の出会いが必然なのか、憧れは恋へ。恋は愛へ。山野の忘れ水のように、密かに流れ着ける愛を求めて・・。
 青き残月(老少不定) ゆうあい教室の広汎性発達障害の浩ちゃん。ひょんな出会いからの交流。そして・・。 
 浸潤の香気 大河内晋介シリーズの第三弾。行きずりの女性。不思議な香りが漂う彼女は? 
 冥府の約束 雨宿りに続く大河内晋介シリーズの第二弾。日本海の砂浜で知り合った若き女性。初秋の一週間だけの命。
 雨宿り 怪奇な夢を見続ける主人公。夢に現れる和服姿の美しい女性。それは不思議な縁から始まるものであった。
 ア・ブルー・ティアズ 入院中の父子が生死の別れ際に触れ合う姿。その様子見た主人公が、自らの父に対する情念を考える。また、夜間の救急病院で起きる生と死のドラマ。

忘れ水 幾星霜  第四章 ⅩⅠ

 千香は、理解していた。しかし、輝明と亜紀の貴重な時間を、奪い取ってしまう自分が許せなかったのだ。
「亜紀、ごめんね。私が元気なら、一ヶ月でも半年でもいられたのに、残念だわ」
「ううん、私のことより、千香の体の方が大切よ。この数日は、決して短い時間ではなかった。一秒一秒が、とても長く幸せを感じることができたもの。それを、あなたが与えてくれたわ」
「亜紀、今日は帰らないで、お願いよ。ねっ、輝坊ちゃん?」
 千香は必死に望んだ。輝明も千香の本心を理解する。
「そうだね。帰るまでは大切な時間だと思う。亜紀さん、千香ちゃんの願い事を叶えてください。お願いします」
「いいわよ。私だって、嬉しいもの」
 午後のホテルのひと部屋。その小さな空間が悠久の時空を越え、三人の過去と現在が不思議に絡み合う。幾星霜を感じることなく、自然の時間が流れていた。
 輝明は、ソファに寛ぎながら好きなバイロン詩集を読んでいる。ふたりの会話が時折耳に入った。
《あの時、亜紀さんが日本に残りオレと結婚していたら、これが、日常の生活だったのかなぁ。時には、夫婦喧嘩。それとも、離婚。なんてバカなこと考えているんだ》
「輝君、輝君、何か飲みたい?」
「輝坊ちゃん、聞こえないの? またボケたのかしら・・」
 返事をしない輝明に、千香がテーブルの雑誌を投げる。
「えっ、えっ? な、何?」
「あなたの奥様が、何か召し上がりますかって聞いているの。輝坊ちゃん、お返事はどうしたの?」
 リラックスしていた体を起こし、かしこまる。
「あ~、もちろん飲みます。できれば、紅茶を・・」
「亜紀、私も欲しい。でも、薄めにね」
「いいわよ。紅茶なら、私も一緒に飲むかなぁ」
 亜紀は居間のカウンターへ行き、ポットのお湯をカップに注ぐ。
《この雰囲気が、小さな幸せなのね。残りの時間を楽しまなければ・・》
 目頭が熱くなる。そっと涙を抑えようとした。いつの間にいたのか、輝明がハンカチで彼女の涙を拭う。
「ありがとう、輝君・・」
「なんだか、いつもボクが泣かしているようだね」
 千香に聞こえない小さな声で話す。
「違うわ。これは幸せの涙よ。あなた・・」
 亜紀は首を振り、ささめく。不意に、後ろから抱きしめられた。彼女はカップから手を放し、抱きしめる彼の腕に手を置き胸へ凭れかかる。背中に彼の熱い体温を感じた。
《あ~、愛しい人・・》

忘れ水 幾星霜  第四章 Ⅹ

 亜紀は、千香の言葉を信じられないと、マジに彼女の目を覗いた。
「まっ、本当にそう思っているの? 千香!」
 千香の顔が歪み、笑い出した。
「うふふ・・、ウソよ!」
「アハハ・・、あ~、驚いた!」
 ふたりは仰け反り、手を叩き大笑い。そして、テーブルの上のカステラを食べ、ガラナを飲んだ。千香の顔が、スーッと真顔になる。
「亜紀、輝君との歳の差は無くなったわね。最後まで、大事にしてあげてね。天国に行ったら、伯母さんに報告する義務があるから・・」
 亜紀の心に、えも言われぬ風が吹き、胸が締め付けられる。
「寂しいことを言わないで・・、私の大好きな千香! でも、大丈夫よ。輝君のお母さんに宜しく伝えてね」
「だって、仕方がないもの」
「いいえ、諦めないで。私より彼の方が、悲しむわ。輝君の前では、弱気なことを言わないと約束してちょうだい。お願いよ、千香!」
「・・、うん・・、分かった」
 部屋のドアがカチャリと音がして、輝明が戻ってきた。
「あっ、お帰りなさい。早かったのね」
 亜紀が先に声を掛けた。千香は顔を下に向け、黙っている。
「ただいま、うん、挨拶だけだったから。千香ちゃん、どうなの? 少しは楽かな?」
「輝君がいないので、寂しがっていたわ」
 亜紀が先ほどの、お返しに応える。千香が直ぐに反応した。
「誰が寂しいの? 私は夫や子供たちが、傍にいないから落ち込んでいるだけよ」
《よし、タイミングよく話せるぞ》
「じゃあ、明日の便で帰るからね」
 ふたりの目線が同時に輝明へ向けられた。ただ、ふたりの目線は、異なる思いが込められている。千香は、不満。亜紀は、戸惑いであった。
「どうして、明日なの? 一週間の予定でしょう。嫌よ。まだ帰らないわ」
《もう、帰ってしまうのね。胸が苦しい・・》
「うん、千香ちゃんの体が、一番よく分かっているはずだ。ブラジルの気候に慣れてしまうと、日本に帰ってから辛くなるよ。先ほどの先生も心配している」
 亜紀は頷くが、千香は、まだ不服の様子。
「千香ちゃんの気持ちは、オレにも分かる。オレだって、まだ帰りたくないよ」
 輝明は、チラッと亜紀の顔を見る。亜紀は真剣に彼を見詰めた。
「だけど、オレにとって、大切な千香ちゃんのことだ。帰ろう?」

忘れ水 幾星霜  第四章 Ⅸ

「ん、何を? どんなこと?」
「おば・・、輝坊ちゃんのお母さんが亡くなるとき、私が傍にいたの。あの子が不憫だから、仲の良い私に面倒を見てねって頼んだわ。私は簡単に、いいよって答えた。だって、輝坊ちゃんが大好きだったから・・。
 伯母さんは、輝坊ちゃんが生まれてから、入退院を繰り返しまともに育てる時間が無かった。輝坊ちゃんも母親に抱かれたり甘えたりした記憶が少ないはず。保育園の母子ダンスは、いつも先生が相手。小学校時代は病院のベッドで一緒に寝たそうよ。
 頼まれたとき、差し迫ることは無いと考えていた。私が頷くと、伯母さんは涙流し喜んでくれたの。その直ぐ後だったわ。今でもあの感触は忘れない。私の手を凄い力で、握ったまま亡くなったの。私が経験する初めてのショックだったわ」
「高一の授業中、あなたわ随分落ち込んでいた。あの時なのね? 千香は何も言わなかった。私は心配だった・・」
「ええ、あれ以来よ。輝坊ちゃんに嫌がられても、お節介をするようになった。何度も口喧嘩をしたか・・。でもね、彼は決して私に手を出さなかった。黙って本を読んでいた」
「・・・」
「・・・」
 ふたりは輝明の顔を思い出し、心の中で黙想する。亜紀が、冷蔵庫からガラナ・ジュースとグラスを持ってきた。グラスにジュースを注ぎ、千香に渡す。千香は一口飲み喉の渇きを癒すと、亜紀を見詰める。
「輝坊ちゃんが詩を書き始めたのは、その頃からよ。作品ができると、いつも私に読んでくれたわ。目を輝かせながらね・・」
「・・・」
「理数系が苦手なのに、工業高校の電子科に入学したと聞き、私は驚いたわ。案の定、部活は演劇部だけでなく社会部、文芸部や軽音楽部など。勉強もしないでね」
「確か、ボーイ・スカウト活動もやっていたんでしょう?」
「そうなのよ、高校三年の夏休みにバイトで稼いだお金で、北海道までヒッチハイク。制服を着て、テントを背中に背負ってよ。ある意味では、無茶苦茶な高校生活を過ごしていた。私は、叱ったわ。うるさいヤツだと思ったでしょうね。
 それが、ある日突然に真面目くさった顔で、悩んでいる姿になった。私は不思議に思ったわ。しばらくして、あなたが私を誘って、手紙のことを打ち明けてくれた。ようやく気付いたわ。輝坊ちゃんが恋をしたことを・・」
「輝君に演劇祭の舞台裏で初めて会ったとき、ひとりで生真面目に飛び回っていた。だから、つい声を掛けてしまった。初めてなのに、不思議と違和感もなく話せたわ。自分でも驚いたほど・・。その後、なぜか反省会に残り、彼の様子をなんとなく眺めていたわ。
 彼が、ペコッと頭を下げたの。つい笑顔で答えてしまった。今思えば、彼の行動は千香の影響かもしれない。ふふふ・・、だから、好きになったのかも・・」
「あら、そうなの? 私のせいで愛したの? それも困ったわね」
「だって、千香を嫌いだったら、輝君と交際なんてしていないもの」
「いいえ、亜紀は私が嫌いだったから、大事な輝坊ちゃんを私から奪ったのよ」