「実は、とうに消え去った青春の面影が、不意に現れたことなの。それも三十年も経ってからよ。ブラジルに来て不慣れな環境での生活が、私の時間と小さな夢まで奪い、すべてを消してしまったはずなのに・・」 佐和は亜紀の話を聞きながら、冷えたレモネードを亜紀の飲みかけのグラスに注ぐ。 「輝君・・、あっ、ごめん... 続きをみる
2017年10月のブログ記事
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「はい、好きです。故郷の思い出に咲く花ですから」 「そうですか、アジサイの花言葉は【しっかりした愛情】です。ご存知でしたか?」 「えっ、はい? 無情とか心変わりでは? 知りませんでした」 亜紀は信じられない様子で、北島の顔を直視した。 「一般的にはそうですが、アジサイの花弁はガクであって、本当の... 続きをみる
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「ご主人と一緒に来られるのね?」 「橋本教授は既に亡くなっており、奥様のいとこの方と来られるようです。奥様はご病気で、恐らく一人旅が困難だから同伴をお願いしたのでしょう」 《えっ、嘘でしょう。輝君が一緒なの?》 「は~ぁ、そうですか・・」 亜紀のショックを隠せない様子に、佐和が彼女の背中を手のひ... 続きをみる
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「横山さん、明日の午前中に、そちらへお伺いしますが宜しいでしょうか?」 「あっ、はい。ど、どうぞ、お待ちしています」 近くで電話の様子を見ていた佐和とマルコスが、亜紀の変化に気付く。受話器を置きテーブルに戻ってきた彼女へ、二人同時に声を掛けた。 「亜紀さん!」 「マルシア!」 亜紀は驚き、ふた... 続きをみる
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一週間ほどが過ぎた日の朝。マルガリーダ園長のみが本名を知っている別棟の孤老(職員たちがタロウさんと呼ぶ)が、アジサイの蕾が綻び始めたことを亜紀に伝える。 施設の裏手に小さな日本風の庭があり、二十株のアジサイの花が植えられていた。亜紀は確かめに行く。 「本当だ、白い花弁がうっすらと見えるわ。タロ... 続きをみる
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「そうでしたか・・」 亜紀も緊張が和らぐ。目の前のカップを手に取り、カフェを飲む。苦みの中に甘さが口中に広がった。 「あなたのことは、すでに手紙で報告しました」 「えっ、本当なの? それで・・、返事は来たの?」 「いえ、視察を終えてサン・パウロに戻ってから、九月の初めに送りました。そろそろ返事が... 続きをみる
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《諦めていた夢が・・、どうすればいいの。やっと、辿り着いた心の安らぎ・・。マリア様、私の心を導いて下さい》 亜紀は朝の仕事を済ませてから、マルコスにホテル・ニッケイまで送ってもらう。 「マルシア! 帰りは、どうするの?」 「そうね、いつ終わるか分からないから、先に帰って・・。あっ、待って! 帰り... 続きをみる
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「ええ、見ず知らずの人間が、突然に自分の名前を知っているなんて怖いですよね。実は、橋本千香さんから依頼されて、あなたを探していました」 「えっ、橋本千香? だれ・・」 「私の大学の恩師、橋本教授の奥様です。確か、高校時代の仲の良い同級生で・・」 《ま、まさか、あの千香のことなの?》 亜紀の頭の中... 続きをみる
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サン・パウロ市郊外の十月は未だ春の気候だが、照りつける日差しは夏のように強い。 亜紀は朝食の片づけを済ませてから、中庭へ向かった。昨日の午後、礼拝堂脇の花壇に植えたスミレの苗が整然と並ぶ。紫色の可憐な花をイメージしながら、白いTシャツの彼女は小石や雑草を取り除く。 「亜紀さん! 朝からご苦労さ... 続きをみる
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「もしもし、千香ちゃん? オレだけど」 「元気だった? 手紙を読んだかしら、どう思う?」 「ああ、読んだよ。体の具合は大丈夫なのかい? 確か、二年前に大腸のポリープを取り除いたよね。関係があるの?」 「うん、膵臓や他に転移したみたい・・。無理しなければ平気よ。心配してくれてありがとう。それで、私の... 続きをみる
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人の歳月は、お構いなしに過ぎ去る。輝明は、千香からの手紙に集中する。 【北島さんから報告の手紙が届いたの。驚いたわ。 八月に、サン・パウロから一千キロ離れた南マット・グロッソ州の日系農場を訪れたとき、偶然にも亜紀のお兄さんの農場だったの。 でもね、亜紀は一緒に住んでいなかった。彼女は環境にな... 続きをみる
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{ボォーッ、ボォーッ} 続いて、出航を知らせる鋭く高いドラの音が聞こえる。 {ジャ~ン、ジャン、ジャン・・} 船を見送る人々の歓声が、一段と上がる。 「輝坊ちゃん、先に行って!」 遅れ気味の千香が、輝明の背中を押した。彼は無言で千香の手を掴み、一緒に行くことを望んだ。どうにか移住船ブラジル丸... 続きをみる
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《なに、その涙? なに、その言葉?》 輝明は、単に美しい景色に感嘆したからとは考えられない彼女の涙の言葉を、不思議な思いで聞いていた。彼はリュックサックのポケットから、小タオルを取り出して亜紀に渡した。 「ありがとう・・。私って、だめね。直ぐに泣いて・・」 「いいえ、ここに案内して良かった。こん... 続きをみる
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翌朝、快晴のハイク日和。待ち合わせの高崎駅西口のバス停前。輝明が待っていると、爽やかな浅緑のブラウスに紺のスラックス、紺のリュックサック姿の亜紀が現れた。長い髪を小さな浅緑のリボンで束ねている。輝明は新鮮な気持ちでうっとりと見ていた。 「お待ちどうさま。何をそんなに見ているの? 私の格好がどこか... 続きをみる
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ガタガタと列車が揺れる。大宮駅の構内に近づき車内が薄暗くなったが、直ぐにプラット・ホームの照明で明るくなった。大宮駅に予定より十五分遅れて到着。ふたりは駅の構内を走り抜け、京浜東北線の始発ホームに辿り着いた。発車ぎりぎりに乗り込めホッとする。 車内は座れる状況ではなかった。仕方なく、吊革にぶら... 続きをみる
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「え、あの詩? 本当ですか?」 「もちろんよ。ええ、素敵に感じたわ」 輝明の初めてのデートは、瞬時に過ぎた思いであった。一秒でも長く一緒に過ごしたいと願っていた彼だが、亜紀に予定があるというので無念にもお開きとなる。だが、別れ際に嬉しい誤算が残っていた。 「実は、あなたのことを千香に伝えたわ。彼... 続きをみる
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彼は、車窓に流れる景色に目をやりながら、文面を思い出す。 「夢中で書いたから、すべてを思い出すのは無理だけど・・」 「それでいいから、早く聞きたいわ」 輝明は目を瞑り、書いた文字を思い浮かべ、甦る言葉を口に出した。 「生まれて生きること。そして、死ぬことは必然ではなく、偶然という奇跡によって成... 続きをみる
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「ふふ・・、宛名不在で戻ってきた。そうでしょう?」 「えっ、どうして分かったのさ?」 輝明の驚く様子に、千香はほくそ笑み喜ぶ。 「だって、久しぶりに会ったあの日に、ラ・メーゾンでケーキを食べながら卒業後の話をしたの。そのときに、亜紀が末広町へ越したことを教えてくれた。それで・・、輝坊ちゃんは誰か... 続きをみる
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「参加した五校の上演が終わり、その場で反省会をしたんだ。オレは司会をしながら参加者の顔を確認し、その人を探した。後ろの席に座っているのを見つけ、軽く会釈すると優しく微笑んで・・」 輝明は、しばらく口を閉じてしまった。彼の恥ずかしい核心に触れる。いくら千香であっても、話すことに躊躇した。 「その人... 続きをみる
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印刷工場から近い高崎駅東口に、ふたりは忙しなく着いた。改札口の時刻表を確認し、十二時三十五分発の特急ときに乗車。特急で大宮駅へ行き、京浜東北線に乗り換えれば時間短縮が可能であると、千香が考えたからである。 席に着くなり、プラット・ホームの売店で菓子パンとジュースを買っていた千香が、輝明に手渡す... 続きをみる
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《初めて触れる亜紀さんの手。オレは離したくない。亜紀さんが何を考えているのか、オレには理解できなくてもいい。オレは好きだ。別れたくない!》 亜紀が縁石から降りて、彼に近づく。それは自然の成り行きなのか、彼女の意志によるものなのか。亜紀の瞳は、輝明の瞳を離さない。輝明は、彼女の手を離さない。 《私... 続きをみる
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夜景を眺める亜紀の横顔が、ネオンの様々な色彩によって幻想的に見える。 《あ~ぁ、亜紀さんの横顔は、なんて美しいんだぁ~》 彼女の心肝にある複雑な感情に触れることなく、ただ見惚れる輝明であった。窓ガラスに映る亜紀の目線と重なり、彼女が微笑む。 《えっ、えっ!》 その微笑みに、輝明の心は乱れ目線... 続きをみる
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「そうなの、ごめんね。亜紀から口止めされ、日本を離れてから渡すようにと約束させられたの。でもね、輝坊ちゃんの気持ちを思うと、我慢できなくて約束を破って来ちゃった。まだ、間に合うわ。ねっ、早く見送りに行きなさい」 千香の言葉をうわの空で聞いていた輝明は、力の無い声で礼を言った。 「ありがとう・・、... 続きをみる
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三十年前、高校三年生の輝明は、兄が経営する印刷工場の一室に独りで生活をしていた。 十二月の初旬、身が凍みるほど寒い日曜日の朝。 「おーいっ! 輝坊、いるか~?」 事務所の輝明の兄が、オフ・セット印刷機の大きな音に負けない声で彼を呼んだ。この数日、気持ちがすっきりしない日を過ごしていた彼は、苛... 続きをみる