忘れ水 幾星霜 第一章 Ⅰ
三十年前、高校三年生の輝明は、兄が経営する印刷工場の一室に独りで生活をしていた。
十二月の初旬、身が凍みるほど寒い日曜日の朝。
「おーいっ! 輝坊、いるか~?」
事務所の輝明の兄が、オフ・セット印刷機の大きな音に負けない声で彼を呼んだ。この数日、気持ちがすっきりしない日を過ごしていた彼は、苛立ちを露わにあらん限りの声で答えた。
「なんだよー。オレは忙しんだー、特に今はー」
「お前にべっぴんのお客さんだー。つべこべ言わずに、早く来ーい」
《えっ、誰だろう? まさか、いくらなんでも、そんなことはありえない》
実際は、気晴らしにヘッセの詩集を読んでいた輝明であったが、仕方なく椅子から立ち上がる。読んでいたページの間に鉛筆を挿み、事務所へ顔を出した。
事務所には、ショート・ヘアが似合う二歳年上のいとこの千香が、冷えた手を石油ストーブにかざしながら待っていた。
「あれ、なんだ。千香ちゃんか・・。おはようサン」
《まあ、失礼ね。なんだとは、何よ。あなたのことを思って、急いで来てやったのに》
「お・は・よ・う。輝坊ちゃん!」
「オレに何か用事なの?」
「なんだとは、随分なご挨拶ですこと。誰と勘違いしたのかな? いつになく不機嫌なご様子だけど。まったく・・」
頬を膨らませ、拗ねた仕草をする千香。だが、直ぐに舌を出したので、輝明は笑ってしまった。
「ウッ、フフフ・・。確かに、がっかりしたさ。フフフ・・」
隣にいる兄が笑いを堪えている。その様子に、じろりと輝明は睨む。兄は笑いながら工場へ逃げた。
「輝坊ちゃん、あなたに大切な物を届けに来たのよ」
彼女はにこやかな顔をしているが、彼を見詰める瞳に愁いが込められていた。輝明は戸惑いを隠せず、せっかちに訊ねてしまう。
「オレに? 誰から? 何を預かったのさ? どうして千香ちゃんが?」
「ちょっと待ってよ! もう、せっかちな人。この手紙なの。これを読めば分かるから」
「えっ、その手紙?」
《嫌だなぁ・・、絶対に、輝坊ちゃんは戸惑うだろうなぁ》
「でも・・」
「でも、でもって何が?」
《もう、私、知らないから・・》
「なんでもない! はいっ、受け取って!」
千香は手に持っている淡いブルーの小さな封筒を、大人気ないやり方で輝明の胸におしつけた。彼は胸に押しつけられた手紙を受け取り、千香の目を気にしながら封を開け、中の便箋を取り出す。
読み始めるが、目に映る文字に愕然とした輝明は、便箋から千香の顔へ目線を移した。
《やっぱり、思ったとおりの反応だわ》