忘れ水 幾星霜 第二章 Ⅲ
《諦めていた夢が・・、どうすればいいの。やっと、辿り着いた心の安らぎ・・。マリア様、私の心を導いて下さい》
亜紀は朝の仕事を済ませてから、マルコスにホテル・ニッケイまで送ってもらう。
「マルシア! 帰りは、どうするの?」
「そうね、いつ終わるか分からないから、先に帰って・・。あっ、待って! 帰りに事務所へ寄るから、誰かに伝えてね。チャオ、マルコス」
「分かった。マルシア、チャオ」
車がホテル玄関口から街路へ出て行く。亜紀は見送ると、覚束ない足取りでホテルの中に入った。
《私は何を聞けばいいの。今更、聞くことなんてないわ。あれから、もう三十年が経っているのよ》
正面のフロントで尋ねるつもりでいたが、横のロビーから声を掛けられた。
「横山さん、ですよね?」
亜紀は恐る恐る声の方へ、顔を向ける。
「はい、そうですが・・」
ネクタイ姿の青年が、物柔らかな笑顔で亜紀を見ていた。
「初めまして、北島です。昨日は失礼しました。さあ、こちらへ・・」
窓際のソファに案内され、亜紀は北島の後に従う。ソファに座ると、北島が先に頼んでいたと思われるコーヒーと冷えた水が運ばれてきた。
《なんだか落ち着かないわ。この雰囲気は、忘れていた空気ね。ブラジルに来てからは、ホテルのロビーなんて無縁の場所だもの・・》
「さあ、どうぞ」
北島は勧めながら自身もカップを手に取り、先に一口飲んだ。
「ウ~、ブラジルのコーヒー、いやカフェは濃くて美味しいですね。僕は好きです」
《なんだか、律儀そうな人。私の緊張を察しているのね》
「それで・・、あの~ぅ・・」
亜紀はとまどうが、彼の顔に目線を置いた。北島は目線に応え、カップをソーサーに戻すと姿勢を正した。
「あっ、ごめんなさい。私は昨年の五月に、この国の経済事情を調査するためにやって来ました。三年ほど滞在する予定です。ブラジルに来る前、挨拶に橋本先生の奥様を訪ねました」
言葉を休め、テーブルのグラスを手に持ち、冷えた水を口に含み喉を潤した。
「その折に、奥様からあなたの消息を頼まれたのですが、難しいと考えていました。八月に、農業視察で南マット・グロッソ州の日系農家を訪ねると、出身地と名字が同じでしたので、もしやと思いお聞きしました。偶然にも、お兄さんにお会いすることができたのです。とても、ラッキーでした」
「そうですか。それで私の職場を・・」
「ええ、事情を説明してね。お兄さんも旧姓の奥様の名前をご存知で、仲の良い同級生であったことも。大変驚かれていました」
北島は、一気にここまで話すと、体の力を抜いてソファに凭れる。