忘れ水 幾星霜 第一章 Ⅷ
彼は、車窓に流れる景色に目をやりながら、文面を思い出す。
「夢中で書いたから、すべてを思い出すのは無理だけど・・」
「それでいいから、早く聞きたいわ」
輝明は目を瞑り、書いた文字を思い浮かべ、甦る言葉を口に出した。
「生まれて生きること。そして、死ぬことは必然ではなく、偶然という奇跡によって成り立っている。・・・、人の出会いも偶然という奇跡が引き起こす。あなたと偶然に出会えた。その・・、ん・・、その偶然を大切に・・、守る。・・、偶然を必然に変えるなら、それが、私の運命と信じたい。・・、こんな内容だと思うよ」
《オレは渡してから、酷く幼稚で意味難解なラブ・レターを書いたと後悔したよな。絶対に、返事が来ないと諦めていた。でも、まさかデートの誘いが来るなんて・・。嬉しかった。夢を見ていると思った。本当にオレはラッキーな幸せ者だ。あのデートは、千香ちゃんは知らないはずだ。黙っていよう・・》
そぼ降る雨の日曜日。朝の十時に、あすなろ喫茶の入り口で待ち合わせた。その日の店内は意外と空いていたので、輝明は一安心した。生涯初めてのデートであった。ふたりは一階の席に座りかけたが、亜紀が彼に尋ねた。
「金井君、ここは名曲喫茶でしょう? 私は初めてだけど、クラシック音楽を聴く部屋があるって、本当なの?」
「はい、その左手の奥に階段が見えるでしょう。その階段の下に部屋があり、用紙に好きな曲をオーダーすれば聴けます。何か聴きたいですか?」
「ううん、特にないわ。金井君は入ったことがあるの?」
「はい、時々聴きに来ます」
「じゃあ、そちらへ行きましょうか? 金井君が聴く音楽を教えてね」
ふたりは階段を下りて音響室に入る。
「わぁ~、凄い。壁いっぱいにレコードが並んでいるのね。グランド・ピアノも置いてあって、中庭もある。素敵、素敵!」
ふたりは壁を背にして、並んで座った。
《やったぁ~、真横に座れるなんて恋人のようだ》
亜紀はコーヒー、輝明は紅茶を注文する。
「金井君は、コーヒーを飲まないの?」
「ボクは、紅茶が好きなんです。ストレートはダージリン。アッサムはミルク・ティーとして飲むのが好きです。横山さんは、コーヒー党ですか?」
「そうね、どちらでもないわ。その時に合わして飲むだけ。何事にもポリシーが無い人間なの。駄目ねー。でも、金井君は違うようね。羨ましいわ」
「いえ、そんなことはないです。ボクは、ただの頑固なだけですよ」
輝明は、好きなラフマニノフのピアノ協奏曲第二番を予約した。亜紀は第一楽章が終わると、興奮気味に彼を見た。
《な、何? オレの顔を見た。えっ、どうしたの?》
最後の楽章が終わり、一瞬の静けさに戻る。いつもの輝明であれば、目を瞑り余韻を楽しむが、今日は余裕がなかった。
「あ~、とても心に響く曲なのね。私も好きになってしまったわ」
輝明は静かにカップの紅茶を飲み、亜紀の言葉に頷く。
「この旋律は、金井君が書いてくれた詩にぴったりね」
思わぬ亜紀の言葉に、彼の心は喜びに高揚した。