忘れ水 幾星霜 第二章 Ⅱ
「ええ、見ず知らずの人間が、突然に自分の名前を知っているなんて怖いですよね。実は、橋本千香さんから依頼されて、あなたを探していました」
「えっ、橋本千香? だれ・・」
「私の大学の恩師、橋本教授の奥様です。確か、高校時代の仲の良い同級生で・・」
《ま、まさか、あの千香のことなの?》
亜紀の頭の中に、千香の顔が目まぐるしく映し出された。
「ちょ、ちょっと待って! もしかして、植原千香のこと?」
「あっ、はい! そうです。確かに奥様の旧姓は植原とおっしゃいました」
北島は安堵した様子で答えた。
「ええ、それなら知っているわ。本当に・・、本当に千香が私を探しているの? どうして、どうしてなの・・」
亜紀は、思わぬ内容に言葉を失った。
「もしもし、もしもし・・、横山さん! できれば、お会いして詳しく説明したいのですが、如何でしょうか?」
「はい、承知しました。どちらに行けば・・」
「私は、東洋街のホテル・ニッケイに宿泊しています。こちらでお待ちしていますが、宜しいでしょうか?」
「はい・・、明日の・・、午前中にお伺いします」
「あ~、良かった。では、明日お待ちしています」
亜紀は受話器を戻したが、その場に立ち尽くす。頭の中では内容を理解したが、心情的には判断が覚束ない。しばらくして、彼女は食堂へ向かったが、何をしても手に付かない状態であった。
《千香が、なぜ? 今になって私を・・探すの? 輝君と関係があること・・》
心の奥が、小さな痛みを感じた。
「どうしたの、亜紀さん。電話の内容が良くなかったの?」
亜紀の様子を心配した事務員のテレーザが、佐和に報告したので急ぎ食堂へやって来た。気を取り直した亜紀は、大まかな内容を伝えた。そして、明日のホテル行きについて了承を得た。
「ひとりで大丈夫なの? マルコスが書類を事務所へ届けるから、一緒に行きなさい。ホテルは事務所の近くだから・・、いいわね?」
「はい、ありがとうございます」
翌日の朝。亜紀は中庭の礼拝堂へ行く。簡素な礼拝堂の中は、白壁に高窓のステンド・グラス。その下に十字架が掛けられ、清楚なマリア像が棚の上に置かれてある。白い長椅子の前列に、彼女はひとり腰掛けた。
誰にも知られたくない涙を流すとき、亜紀はこの礼拝堂にしばしば訪れた。自らの苦難で痛めた彼女の心を、幾多の涙が亜紀を救い安らぎを与えたことか。誰も知らない。