忘れ水 幾星霜 第一章 ⅩⅡ
《なに、その涙? なに、その言葉?》
輝明は、単に美しい景色に感嘆したからとは考えられない彼女の涙の言葉を、不思議な思いで聞いていた。彼はリュックサックのポケットから、小タオルを取り出して亜紀に渡した。
「ありがとう・・。私って、だめね。直ぐに泣いて・・」
「いいえ、ここに案内して良かった。こんなに喜んでもらえて・・」
「ええ、そうよ。とても感激よ。さて、お弁当を食べましょうか?」
「そう、そう、早く食べましょう。ここへ連れて来たご褒美のお弁当だ!」
輝明はお弁当をそそくさと取り出し、シートの上に並べる。肌に感じる秋の透き通る空気と、頂上から見渡せる紅葉の色彩。亜紀の手作り弁当を、より一層に美味しく感じさせた。
心もお腹も満たされたふたりには、特にそれ以上の会話を必要としない。四方に見える絶景を眺め、その思い出の時間を共有することが、輝明と亜紀にとって大切な時の流れとなったからである。
「亜紀さん、寒くないですか? そろそろ下りましょう」
「そうね、登るときは良かったけど、少し寒く感じるわ」
秋の服装では、水沢山の風が心なしか体を冷やした。ふたりは早めに下山する。登ってきた山道を引き返すが、時折、彼女は立ち止まって周囲の森に何かを探す。その動作に、輝明は気になった。
「輝君、その木の脇に流れている水。あなたの詩に書かれている【忘れ水】かしら?」
彼女の指が示す場所に、輝明は近づいて確かめる。
「良く探し当てましたね」
すると、亜紀が左手で近くの枝を掴み、体を支えてしゃがむ。右手の人差し指で枯葉を取り除くと、【忘れ水】が細々と流れていた。白く華奢な亜紀の指が、【忘れ水】に触れて存在を確かめる。その【忘れ水】に濡れた指を、そっと彼女の唇に寄せた。
彼女の女性らしい仕草を眺めていた輝明は、浅緑のリボンで束ねる黒髪と白いうなじに、亜紀が大人の女性であることを認識させられる。彼女を強く抱きしめたい欲望に、輝明はショックを受けた。それは幻想であり、現実でもあった。
一瞬、ガクンと体が大きく揺れ、輝明は倒れそうになった。慌てて吊革を握りなおす。先ほどからぼんやりと車窓の外を眺める輝明に、千香は心配で目が離せなかった。
《あっ、危ない!》
「輝坊ちゃん、しっかりして! どうせ、亜紀のことを考えていたんでしょう。気を付けてよ。危ないから・・」
「はい、はい、分かりましたよ。注意します」
「もうすぐよ。鶴見駅過ぎたから・・」
出航は三時のはずだ。腕時計の針は二時をかなり回っている。果たして間に合うのか、ふたりは不安になっていた。
横浜駅から根岸線に乗り換えて、関内駅に着いたのは三時十分前であった。大桟橋埠頭まで、一キロ。ふたりは懸命に走り埠頭を目指すが、無情にも港から汽笛が鳴り響いた。