忘れ水 幾星霜 第一章 Ⅸ
「え、あの詩? 本当ですか?」
「もちろんよ。ええ、素敵に感じたわ」
輝明の初めてのデートは、瞬時に過ぎた思いであった。一秒でも長く一緒に過ごしたいと願っていた彼だが、亜紀に予定があるというので無念にもお開きとなる。だが、別れ際に嬉しい誤算が残っていた。
「実は、あなたのことを千香に伝えたわ。彼女、びっくりしていた。でも、あなたを輝坊ちゃんと呼んでいたけど、本当なの?」
「はい、親せき中で呼ばれています。もう、高校生ですよ。いつまでも幼児扱いで、可笑しくありませんか?」
輝明は、赤面しながら仏頂面で言い訳をする。
「そうでもないわ。可愛らしいと思うけど・・。千香が羨ましい、彼女はあなたを本当の弟のように思っている。大好きなのね」
「いや、冗談じゃないです。いつも怒られていますよ」
「でも、私が呼ぶわけにはいかないものね。千香に睨まれてしまう。私は輝君と呼ぶわ。いいでしょう?」
「えっ、なんだか照れるけど、輝坊ちゃんより嬉しいです」
「その代わりに、私のことを亜紀と呼んでね」
輝明は、家に帰っても自分と亜紀の名前を繰り返し呼び、喜んでいた。
《輝君か・・、オレのことを輝君と呼び・・、それに、亜紀さんか・・、オレが亜紀さんと呼ぶ。ムフフ・・》
千香は、さっきから夢想の世界に入り薄笑いを浮かべている輝明を、黙って見ていた。
「もう、いい加減にして! 何を思い出して、ニヤニヤしているの?」
「あっ、いや、幼稚な意味不明なことを書いて渡したものだなあ、と思ってさ」
「いいえ、面白いラブ・レターよ。でも、輝坊ちゃんらしい詩的な内容かと思っていたわ。だって、文芸部に入って、いつも詩を書いているじゃない」
「詩も書いて渡したよ。だけど、ぜーんぶ忘れちゃった」
「あっ、狡い!」
輝明の太ももを容赦なくつねる。これには彼も我慢ができなかった。
「いっ、痛いなあ。ちょっと待ってよ。思い出すから・・」
彼は、心に刻み込まれた詩を暗唱する。
【忘れ水
貴女に 微笑みを返されたとき 眩しい輝きと温もりを感じる
今までにない豊かな心情を知り 出会いは 偶然の奇跡である
心の奥に 人知れず 絶え絶えに流れる 忘れ水
本流に辿り着くことなく 細やかに流れる 忘れ水
せめて 貴女だけに認められ 感じて欲しいと
ひたすらに 願うばかり】
「信じられない。こんな詩を送ったの? これで、亜紀は輝坊ちゃんに傾いたのね」
「傾いていないよ。現に失恋しているじゃないか」