忘れ水 幾星霜 第二章 Ⅵ
「横山さん、明日の午前中に、そちらへお伺いしますが宜しいでしょうか?」
「あっ、はい。ど、どうぞ、お待ちしています」
近くで電話の様子を見ていた佐和とマルコスが、亜紀の変化に気付く。受話器を置きテーブルに戻ってきた彼女へ、二人同時に声を掛けた。
「亜紀さん!」
「マルシア!」
亜紀は驚き、ふたりの顔を見比べる。そして、三人は同時に大笑い。
「ど、どうぞ。アハハ・・、佐和さん、ウフフフ・・」
「マ、マルコスは・・、若いから、直ぐに止まらないのね。ふふふ・・、亜紀さん・・、
それで・・」
「佐和さんだって、止まりそうもないみたい。ねえ、マルコス?」
「ごめんなさい。それで、電話の話は心配なことなの? 浮かぬ顔だったけど」
「ん・・、いいえ、日本の友達から連絡が来て、私に会えるか聞いて欲しいと言うの。もしかしたら、ブラジルに来るかもしれない。どう返事したらいいか、私には分からない。それで、明日の午前に、あの北島さんが園に来られるそうです」
亜紀の話を真剣に聞いていた佐和が、彼女の心細い気持ちを察したようだ。
「まあ、そうなの? 明日ね? もし良ければ、私も同席しましょうか?」
「ええ、できればお願いできますか? 私ひとりでは怖くて、答えられそうにない」
翌日の十時過ぎ。北島が通訳兼運転手の車で憩いの園を訪れた。亜紀は、応接室で同席の佐和を紹介する。
「神戸大学の北島です。お忙しい時間に申し訳ございません」
北島が両手で差し出した名刺を、佐和は受け取りながら肩書を目で追う。
「まあ、大学の先生でしたか? 慣れない国での調査は大変でしょうね」
「いやぁ~、もう一年が過ぎましたので、だいぶ慣れましたよ」
「ブラジルには、ご家族と一緒ですか?」
北島は、片手で頭の後ろを叩きながら、残念そうに答える。
「残念ながら、単身です。子供が小さいものですから」
「そうですか・・」
亜紀は、ふたりの会話の間、ドキドキして心が落ち着かない。佐和が横の彼女に目線を向けると同時に、亜紀は声を発していた。
「千香は、ひとりで来られるの?」
昨日の電話以来、あれこれと考え続けていた事を、性急に尋ねた亜紀であった。佐和から亜紀に目線を移した北島は、冷静に静かな声で答えた。
「いいえ、おふたりと聞いています。お会いになりますか? 奥様は返事をお待ちしていますが、横山さんの気持ちを大切に考えられているようです」
北島の答えは亜紀の心を強張らせ、膝の上で固く握りしめている両手を震えさせた。
《やはり・・、そうなのね。いや、待って。ご主人かもしれない。何を早合点しているの。そうに決まっているわ》