忘れ水 幾星霜 第二章 Ⅰ
サン・パウロ市郊外の十月は未だ春の気候だが、照りつける日差しは夏のように強い。
亜紀は朝食の片づけを済ませてから、中庭へ向かった。昨日の午後、礼拝堂脇の花壇に植えたスミレの苗が整然と並ぶ。紫色の可憐な花をイメージしながら、白いTシャツの彼女は小石や雑草を取り除く。
「亜紀さん! 朝からご苦労さま、園の皆さんがさぞや喜ぶでしょうね。私も楽しみにしているわ」
憩いの園事務長の佐和が、片手で日差しを遮り声を掛けた。亜紀はつば広の麦わら帽子を脱ぎ。
「あっ、佐和さん、おはよう! そうね、喜んでいただければ・・」
首に巻いたタオルで顔の汗を拭い、雲ひとつない青空を眺める。
「それでね、あなたが帰られた後に電話があったの。確か、日本から来られた北島さんと言われたわ」
「えっ、どなた? 知らない名前ですね」
「ここに勤めていることは、南マット・グロッソのお兄さんから聞いたそうよ」
亜紀は首を傾げた。
「兄から・・、何も連絡がないけど・・。はて、どんな用事でしょう」
「今日の昼時間に、また掛けてくるわ。嫌なら断りましょうか?」
「いいえ、呼んでください」
「分かったわ、暑いから無理しないでね」
「はい、もうすぐ戻ります」
《でも、誰だろう・・。まあ、いいわ。話せば分かることよ》
半時後、亜紀は施設内に戻る。その後、入所者の煩雑な世話に追い回され、亜紀は時間を忘れるほどであった。事務所から呼ばれ、ようやく昼時間に気付く。
急ぎ事務所に顔を出す。若い事務員のテレーザが受話器を渡した。亜紀は受話器を受け取り、素早く耳に当てる。
「もしもし、横山ですが・・」
目の前のテレーザが、好奇心いっぱいに耳を澄ませている。亜紀は声のトーンを下げ、耳に神経を集め見知らぬ相手の反応を待った。
「ボン・ヂーア!(おはよう) 横山亜紀さんですね?」
意に反して、明るい声が耳に響く。
「は、はい。そうですが・・」
亜紀は慌てて答える。
「私は、北島と申します。突然で驚かれたでしょうね。申し訳ないです」
「いいえ、どんなご用件でしょうか? それに、どうして私の名前をご存じなのですか?」
不審に思うあまり語調を強めてしまった。