忘れ水 幾星霜 第二章 Ⅴ
一週間ほどが過ぎた日の朝。マルガリーダ園長のみが本名を知っている別棟の孤老(職員たちがタロウさんと呼ぶ)が、アジサイの蕾が綻び始めたことを亜紀に伝える。
施設の裏手に小さな日本風の庭があり、二十株のアジサイの花が植えられていた。亜紀は確かめに行く。
「本当だ、白い花弁がうっすらと見えるわ。タロウさん! 満開になるのは、いつかしらね」
「そうだね・・、一週間後・・、かな?」
「私ね、この時期になると、咲くのを楽しみにしているの」
「うん、知っているよ」
「あっ、そうか。前にアジサイの花が好き、と言ったことを忘れてた。うふふ・・、故郷の清水寺の長い階段脇に、青いアジサイがとても綺麗に咲くの。その様子は、いつまでも心に残り忘れないわ」
亜紀は、思い出せる風景を頭に描き説明した。すると、普段は寡黙なタロウさんが、新緑の若葉を愛しみながら触れ、意外にも過去の話をした。
「ワシの故郷にもあった。母ちゃんが好きでな。小さい頃に、妹と一緒によく連れて行かれたよ。幼心にも綺麗な花だと思った。だから、ここに植えることにしたんだ。アジサイの花を見ると、母ちゃんと妹を思い出すから・・」
タロウさんの話す横顔を亜紀は黙って見ていたが、軽い気持ちで口を開いた。
「それで、タロウさんの故郷はどちらなの?」
亜紀は自分の失言に気付き、彼の様子を心配した。案の定、若葉に触れていた彼の手が止まる。だが、苦渋に満ちた顔でか細く答えた。
「千葉だよ・・」
それ以上の会話を避けるためか、庭の隅に自らが建てた小屋の中へ隠れた。彼が過去を顧みることに苦痛を抱いていると、亜紀はそう感じた。
《私だって辛いのに、浅はかなことを聞いてしまった。タロウさん、ごめんなさいね》
亜紀は、彼の存在を知ってから、敢えて担当を佐和に願い出たのであった。タロウさんの仕草が、どこか輝君に思えてしまうからだ。その度に、未練がましい自分を戒める。
《遠い昔のこと。思い出しても仕方がないでしょう。駄目な私ね! 今をしっかり生きるしかないの》
その日の午後。談話室で休憩時間を過ごしている亜紀に、北島から電話が掛かってきた。談話室の電話に回してもらう。
「ボア タルデ(こんにちは)、今朝、日本から電話がありました」
「ほ、本当に? 千香からですか?」
「はい! 橋本の奥様です。消息が分かって、とても驚き大喜びでした。それで、お会いできるか、確かめて欲しいとのことです。来月に訪問したいようです」
「・・・」
亜紀は唐突の話で声も出ない。
《答えようがない。ブラジルに来るって・・、どう答えればいいの》