忘れ水 幾星霜 第一章 Ⅱ
「そうなの、ごめんね。亜紀から口止めされ、日本を離れてから渡すようにと約束させられたの。でもね、輝坊ちゃんの気持ちを思うと、我慢できなくて約束を破って来ちゃった。まだ、間に合うわ。ねっ、早く見送りに行きなさい」
千香の言葉をうわの空で聞いていた輝明は、力の無い声で礼を言った。
「ありがとう・・、千香ちゃん。オレは、もう・・」
《なんだよ、この手紙。オレには意味が分かんないよ。どうして?》
釈然としないまま部屋に戻り、勉強机の椅子にドッと腰掛けると天を仰ぐ。手紙に書かれた文字の意味を考えたが、彼には理解できない。
気を取り直し、握り締めた手紙を優しく広げ、一言一句漏らさないよう読み返す輝明であった。
【輝君へ
ごめんなさい。この手紙を書くのに随分と悩みました。親友の千香から、輝君には早く伝えなさいと言われていたけど、幾度も機会を逃して話すことができなかった。
ブラジルに行くことは、一年前から家族で話し合われてきたことです。当初は、父と兄が行くはずでした。しかし、輝君と知り合った頃に、母の意見から家族全員で行くことに変わってしまったの。
たくさんの思い出をありがとう。
輝君が、この手紙を読んでいる頃に、私は日本を離れます。輝君のことは決して忘れません。いつまでもお元気でお過ごしください。
さようなら 亜紀】
手紙を読み終えると、全身の気力が失われ虚脱状態の輝明であった。
《はぁ~、あの晩の話したいことが、これだったんだ》
輝明は、一週間前の甘くほろ苦い複雑な体験を、思い出す。
前日に、亜紀から誘いの電話を受けた。
「輝君に話したいことがあるの。明日の夜、一緒に食事をしませんか?」
次の日の夜、街中の連雀町にオープンしたスカイ・ラウンジ(回転式レストラン)で、一緒に食事をすることになった。輝明は部活で帰宅が遅くなり、急ぎ私服に着替えて慌ただしく出掛ける。忙しない様子でラウンジに着くと、既に亜紀がテーブル席で待っていた。
「遅れてごめんなさい」
「いいえ、私も来たばかりよ」
亜紀は笑顔で答え、前の席に座るよう勧める。
「学校では、変わったことはないの?」
「たくさん有りますよ。僕は部活を掛け持ちしているから、特に大変です」
「えっ? 演劇部だけじゃないの?」
「演劇部が中心ですけど、先日の合同演劇祭が最後で後輩にバトン・タッチです。でもね、任せる後輩がひとりしかいません」
「じゃあ、来年は継続できないわね」
「いや、来年はひとり芝居を考えているようです。だめなら、落語をやるって・・。笑っちゃいますよ」
「まぁ~、面白い後輩ね。ふふふ・・」
食事中は些細なことでも笑う。その度に亜紀の鮮やかな長い髪が揺さぶられる。楽しい時間が過ぎて行く。ただ、輝明には心なしか亜紀の顔色が青く見えた。
時にフッと何かを思い詰め、ガラス越しの夜景に視線を置く亜紀。その素振りは、輝明の心に彼女の内情を思いはからせる。
《あの眼差しはなんだろうか。悲しい別れ話は、楽しい後に必ずやってくるはずだ。絶対に嫌だ。耐えられない。無理だよ》