忘れ水 幾星霜 第二章 Ⅶ
「ご主人と一緒に来られるのね?」
「橋本教授は既に亡くなっており、奥様のいとこの方と来られるようです。奥様はご病気で、恐らく一人旅が困難だから同伴をお願いしたのでしょう」
《えっ、嘘でしょう。輝君が一緒なの?》
「は~ぁ、そうですか・・」
亜紀のショックを隠せない様子に、佐和が彼女の背中を手のひらで優しく摩る。亜紀は佐和の心遣いに軽く頷く。
「ご心配なく、後で説明しますから・・」
佐和は理解して、背中の手を引いた。
「北島さん、その方のお名前は・・?」
「確か・・、金井さんです。ご存知ですか?」
「え、はい。存じて・・いま・・す」
亜紀は弱々しく答えたが、内心では胸が高鳴り躍動していた。
《やはり、輝君なのね。どれほど輝君の名前を呼び、夢を見続けたか。本当に会えるのね》
「では、お会い頂けますね?」
「はい・・」
北島の顔がほころび、責任を果たせた喜びの表情に変わった。その場に漂っていた緊張の空気が和らぎ、カフェを飲みながら雑談に移る。日系社会の医療や福祉関係の会話になると、北島が憩いの園を見学したいと希望した。
佐和は予定があるので、亜紀が代わりに案内する。
中庭の通路に来たとき、周囲に人のいないことを確認した北島が、亜紀に質問を投げかけた。
「横山さん! 奥様のブラジル訪問は、何か複雑な事情がお有りのようですね」
亜紀の神経がぴんと引き締まる。
「なぜ、そう思われたのですか? 何も有りませんよ」
「それに、あなたが動揺された方は・・」
亜紀の心が大きく揺れる。
「北島さん、あなたが何を考え、どう思われたか知りませんが、特に複雑な事情なんて有りませんわ。残念ですが・・」
北島は、応接室で見せた彼女の僅かな変化を見逃さなかった。
「そうでしょうか? 奥様は必死の覚悟で、遠いブラジルまで来られる。大学の同僚に問い合わせたら、長旅が耐えられるか心配らしいです」
「えっ? 千香は、それほど具合が悪いの?」
「ええ、容体が心配です」
亜紀は北島の話に項垂れる。顔を上げ、そこから見えるアジサイを眺めた。
《アジサイは多様な色に変化する。人の心も時と共に変化する。千香との友情は変わらないが、輝君の心は変わっているはずよ》
「横山さんは、あのアジサイが好きですか?」
北島が、話題を変えてくれたのでホッとする。