忘れ水 幾星霜 第一章 ⅩⅣ
人の歳月は、お構いなしに過ぎ去る。輝明は、千香からの手紙に集中する。
【北島さんから報告の手紙が届いたの。驚いたわ。
八月に、サン・パウロから一千キロ離れた南マット・グロッソ州の日系農場を訪れたとき、偶然にも亜紀のお兄さんの農場だったの。
でもね、亜紀は一緒に住んでいなかった。彼女は環境になれず、心身ともに苦しんでいたそうよ。日本を離れて五年後に、流行り病でお父様が亡くなりお母様も看病から体調を崩されて、サン・パウロの日系介護施設に入所。
亜紀は十五年間お母様に付き添い、亡くなった後はその施設で働いているらしいわ。
輝坊ちゃんは、亜紀との経験から女性に偏見を持ち、心を閉じてしまった。未だに結婚もしないで困った人。
亜紀は、あの別れの手紙を私に預けたとき、あなたが本当に好きだった。時間があれば素直な自分を表現し、もっと心を通じ合えたと語ったわ。
輝坊ちゃんの詩に『愛することは 裏切りと失望を前提とし 愛されることは 裏切りと失望を肯定とする だが それでも人を愛し 愛されたいと願う』が、あったわね。
あなたは亜紀に失望したかもしれない。でも、彼女は輝坊ちゃんを裏切ってはいないの。それだけは信じてあげなさい。亜紀のことは、心の片隅に仕舞って新たな心の扉を開けなさい。今からでも遅くはないわ。
さて、私のことだけど。
前から体調が思わしくなくて、先々週に検査入院したの。検査の結果、医師から宣告されてしまったわ。進行が速く、もう手遅れで余命一年ですって。驚いた? 私は驚かないわ。私の順番が随分早く来たのね、と思っただけよ。
死ぬのも偶然で奇跡なのでしょう。だから、素直に受け止める。ジタバタしても仕方ないものね。私って、偉いでしょう。
それで、輝坊ちゃんにお願いがあるの。私と一緒に暮らせるかしら。わずかな残りの人生をあなたと過ごし、我が儘を言うのが私の夢なのよ。輝坊ちゃんが傍にいてくれたら、死ぬことを寂しいと思わない。東京の子供たちも、輝叔父さんと暮らすことは大賛成です。どうかしら。
最後に、私にも輝坊ちゃんが感じていない【忘れ水】があるの。涸れるまで見届けてよ。勝手なお願いを聞いてね。 かしこ 千香より】
千香の手紙を読み終えると、老眼鏡を外してテーブルの上に置く。タバコと灰皿を持ってベランダへ行く。
《亜紀さんが、サン・パウロに住んでいたとは予想外だったな。なぜ、探すことができなかったのだろうか》
吐き出す紫煙が、秋風に乗りスーッと空へ旅立った。
《近いうちに、水沢山に行って来よう。あの忘れ水を確認して、千香ちゃんの忘れ水も探してみるかな。それにしても、千香ちゃんの病状が心配だ。いつまでも一緒に元気でいてもらいたい・・》
胸ポケットの携帯を取り出し、千香の元気な声を聞きたいと思う輝明であった。ふたりは姉と弟、幼友達として育ち、いつも傍にいることが自然であった。