忘れ水 幾星霜 第二章 Ⅳ
「そうでしたか・・」
亜紀も緊張が和らぐ。目の前のカップを手に取り、カフェを飲む。苦みの中に甘さが口中に広がった。
「あなたのことは、すでに手紙で報告しました」
「えっ、本当なの? それで・・、返事は来たの?」
「いえ、視察を終えてサン・パウロに戻ってから、九月の初めに送りました。そろそろ返事が来るでしょう」
ふたりは、しばらく雑談を交わしてから別れる。北島はホテルの玄関口まで同行して、彼女を見送った。歩道を歩く亜紀は、周囲に気を配らず事務所へ向かう。不意に肩を叩かれ、驚いて後ろを振り返る。
「きゃっ! 何よ。誰なの?」
「マルシア! ボーッと歩いていたら、危ないよ。この辺はトロンバジーニョ(路上生活の子供)が、いつも狙っているからね。周りに気を配って歩かないとだめだよ」
「あ~、マルコスで良かった。でも、オブリガーダ(ありがとう)」
マルコスは、ホテルの前のバール(街角の軽食店)で、カフェを飲みながら亜紀を待っていた。彼女はホテルから出てきたが、考え事をしながら歩いている様子。
「声を掛けたが返事もしない。危ないと思った」
「ごめん、ごめん。心配してくれたのね」
「心配するよ。お年寄りが一番狙われているからだ」
「あ~、年寄りと言ったな。マルコスでも許さない!」
「アッハハハ・・、日本語を間違った。ごめんなさい」
彼は笑いながら、自分の頭を叩いて見せる。その様子に、亜紀も釣られて笑ってしまった。
「うふふふ・・、でも、私を守ってくれたから許すわ。さあ、事務所へ行きましょう」
ふたりは仲良く腕を組み、憩いの園の事務所がある日本文化センターへ向かった。
亜紀の母が亡くなって十数年が過ぎた。母親の死に心を乱し、生きる道を失いかけた彼女に、マルガリータ園長と佐和事務長が施設に留まるよう勧めた。
母の面影が唯一残る場所であり、入所者の多くが日本人のため亜紀の心を和ませる。今更、兄家族が住む移住地に戻り生きて行く気力も自身もないのに、況して日本に帰り生きて行けるはずがない。
亜紀はわだかまりもなく、この施設に留まることを決めたのだ。徐々に仕事にも慣れ、言葉も理解し平穏な生活が過ごせるようになった。
その頃から、施設の若い職員たちは、彼女をマルシアと呼び始めた。アキは、ブラジル語の近い場所を示す“ココ”の意味があり、紛らわしいからだという。今では、彼女も自然に受け止め、マルシアの名前で呼ばれることに慣れ親しんでいる。