忘れ水 幾星霜 第一章 Ⅳ
《初めて触れる亜紀さんの手。オレは離したくない。亜紀さんが何を考えているのか、オレには理解できなくてもいい。オレは好きだ。別れたくない!》
亜紀が縁石から降りて、彼に近づく。それは自然の成り行きなのか、彼女の意志によるものなのか。亜紀の瞳は、輝明の瞳を離さない。輝明は、彼女の手を離さない。
《私は何をしようとしているの。輝君、ごめんね。あなたを弄んでしまったわ。でも、でも・・、私、分からなくなったの》
輝明の体は暗示に掛けられたように動けない。しかし、彼の心臓は勝手に躍動している。輝明の鼻腔に爽やかな大人の女性の香りが侵入し、肺を満たしてゆく。
亜紀の唇が、優しく彼の唇に触れた。性急な輝明の若い脳は、本能に導かれるまま強く触れることを要求した。だが、それは叶わなかった。むしろ、残酷な言葉が小さな声となって、彼の耳にそっと触れたのである。
「ごめんなさい・・。輝君とは・・、もう会えないの・・」
亜紀は握られた手を振り捨て、小走りに去って行く。月の光に照らされた長い髪の後ろ姿。彼女が門柱に隠れるまで、輝明は茫然自失状態で眺める。その場には、彼の心に虚無感だけが残った。
《やはり、大事な話は別れることだったんだ。なぜ、なぜオレではだめなんだぁ~。ああ、オレの恋は終わった・・》
夜風が輝明の体を冷やし、心を折る。寒空を見上げる彼の目から、大粒の涙が一粒、一粒と溢れ出す。青白い月がぼんやりと瞳に映った。
千香から渡された亜紀の手紙を読み、あの晩の残酷な声が不思議な感触と共に思い起こされ、彼女の不可解な言動を理解することができた。だが、迷いと疑いの心が晴れたとしても、今までとは異なる感情が初めて生まれた。
《この感情は、なんだろう? 亜紀さんに失望、裏切り。考えられない!》
輝明は愕然とする。自分では決して望んでいない感情であったからだ。
「思ったとおりだわ。ほら、何やっているの?」
突然に部屋のドアが開き、千香が呆然と座っている輝明を見つける。
「な、なんだよ。男の部屋に!」
「バカ言ってんじゃないの。輝坊ちゃんを、男だなんて一度も思っていません」
「あっ、じゃあ、オレは何なんだ」
「そんなこと、今、答えることじゃないわ。私も一緒に行くから、早く支度しなさい!」
《本当に、世話を焼かせる子ね。でも、そこが可愛いんだな》
「行くって、どこへ?」
「決まっているじゃない。横浜港よ。本当は行きたいのでしょう?」
《なんで、オレの気持ちを知っているんだよ~》
「もう、無理だ。間に合わないよ。それに電車賃が無いもん」
輝明は、千香の勢いに行く気になったが、懐の寂しさにしょげる。
「出航は午後の三時よ。後悔するのは、輝坊ちゃんだからね。お金の心配は大丈夫。佐兄ちゃんから、電車賃を渡されたわ」
「兄貴が!」
「ええ、そうよ。だから早くして!」