忘れ水 幾星霜 第一章 ⅩⅢ
{ボォーッ、ボォーッ}
続いて、出航を知らせる鋭く高いドラの音が聞こえる。
{ジャ~ン、ジャン、ジャン・・}
船を見送る人々の歓声が、一段と上がる。
「輝坊ちゃん、先に行って!」
遅れ気味の千香が、輝明の背中を押した。彼は無言で千香の手を掴み、一緒に行くことを望んだ。どうにか移住船ブラジル丸の出航に間に合うが、デッキに連なる人の群れから、亜紀ひとりを探すのは容易ではなかった。
{ボォーッ、ボォーッ}
耳を塞ぐほどの汽笛が湾内中に響き、タグボートに引かれる船体がわずかに動く。
歓声がさらに高まるなか、船尾のデッキにぽつねんと立つ亜紀の姿を、輝明は見つけることができた。千香に伝え、船尾に近い場所へ移る。その亜紀が、この場所に居るはずがない輝明と千香の姿を、埠頭の人々の中に見いだした。彼女は、デッキの手すりに体を寄せ両手を差し出す。
船体が埠頭との間を広げ、海面に幾つもの渦が大きな輪を描く。五色の紙テープが見送る人と見送られる人の思いを結び付けているが、一本、また一本と無情に千切れ始めた。
はかなく千切れた紙テープの端が、風に煽られ宙を舞う。その姿は虚しい舞であり、誰しも色鮮やかな美しい舞とは思わないであろう。
輝明と千香は、声を張り上げ両手を大きく振る。ふたりは埠頭の多勢と共に、別れの言葉だけを繰り返す。
亜紀も大きく手を振っていたが、突如、手すりに肘をつき両手で顔を覆った。その姿に動揺した千香が、輝明の腕に顔を伏せてむせび泣く。その刹那、心の中に初めて芽生えた『愛』という感情を、輝明は声に出して叫んでしまった。涙が溢れ止まらない。これほど心残りな別れはないと、輝明は痛切に感じた。
船と埠頭を繋ぐ紙テープはすべてが千切れ、握り締めている切れ端を直ぐに手放す人は誰もいなかった。夕日に映えるクリーム色の船体は、ゆるゆると沖合へ遠ざかって行く。
《間に合わなかった。あの人の真意を知りたかったが、とうとう叶わなかったなぁ》
心の中に、ぽかっと大きな穴が開いてしまった輝明は、大きく息を吸って自分を奮い立たせる。腕にしがみついている千香に伝える。
「さぁ、帰ろう千香ちゃん」
関内駅に向かう多くの人たちに紛れ、無言で歩くふたり。冷たい風にコートの襟を立てる。最後の汽笛が遠くに聞こえたが、振り返らずに歩き続けるふたりであった。
歩道の上に散った街路樹の枯葉だけが、カサカサと忙しない音を立てた。