忘れ水 幾星霜 第一章 Ⅲ
夜景を眺める亜紀の横顔が、ネオンの様々な色彩によって幻想的に見える。
《あ~ぁ、亜紀さんの横顔は、なんて美しいんだぁ~》
彼女の心肝にある複雑な感情に触れることなく、ただ見惚れる輝明であった。窓ガラスに映る亜紀の目線と重なり、彼女が微笑む。
《えっ、えっ!》
その微笑みに、輝明の心は乱れ目線を逸らす。しかし、惨めな自分と思いながらも、彼は亜紀の横顔に心が奪われてしまう。
《輝君、真剣な顔で見つめないで。ああ~、また見ている》
お互いにティー・カップの冷めた紅茶を飲み干し、心残りのまま食事を終える。
《何を考えているの、早く話さなければ・・。私って意気地なしね!》
結局、亜紀は肝心な別れ話を伝えることが、できなかった。
《男らしく、聞けよ! 振られたっていいじゃないか。・・・、やはり・・、嫌だ。聞きたくない》
輝明も、恋するが故に臆病風が吹き、核心に触れることを避けた。
ふたりが外に出ると、晩秋の空に青白い月が輝き、路上を明るく照らしていた。高崎城址の堀に沿って歩き始める。前後に、数組のカップルがゆったりとした足取りで、腕を組み肩を寄せて歩いていた。
「輝君・・、寒くない?」
「うん、少し寒いね」
《オレは、何を答えているんだ。大人なら、男性から聞くことじゃないか。やはり、年上の女性に恋をするなんて、オレには無理なんだろうな。亜紀さんだって、物足りないと思っているはずだ》
亜紀が何を考えているのか、理解できない心細さを彼は感じていた。
「亜紀さん! 千香ちゃんから聞いたことですが・・」
《えっ、何を聞いたの? あのことは知らないはずだけど・・》
「はい?」
「会社を辞めたそうですね。本当ですか?」
輝明は決心した。話したいことが、別れ話ではないと願いながら訊ねたのである。
「ええ、本当よ。家庭の事情でね」
《なぜ、素直に話せないの。だって、輝君が苦しむと思うから・・。もう、会えなくなるのよ。》
「これから、どうするの?」
「分からないわ。どうしたら、いいのかしら?」
《何をバカなことを言ってるの。きちんと伝えるべきよ。千香から頼まれたでしょう》
彼女の答えに、輝明は困惑する。これ以上の会話が進まず、しばらく沈黙が続く。末広町まで来てしまった。亜紀の家は、すぐそこである。
「あのう・・、輝君ね・・」
彼は立ち止まる。亜紀の浮かぬ顔に応じ、心して言葉を待った。
「いえ・・、なんでもないわ」
《だめ、だめ、私には言えない》
亜紀は立ち止まらず、そのまま歩き続ける。
「・・・」
輝明は、無言で亜紀の後姿を見るしかなかった。数歩先の彼女が、不意に縁石の上を歩きだした。
《えっ!》
輝明が驚くと同時に、彼女がバランスを崩す。彼は走り寄り、手を差し出した。亜紀が力強く輝明の手を掴む。その手の温もりは、彼にとって衝撃的で忘れられない感触であった。