忘れ水 幾星霜 第六章 Ⅱ
夢の中に沈みながら、輝明はふたりの存在を推し量る。目の前にいるのは、いつも千香である。しかし、意識するのは、後ろに見え隠れする亜紀の存在であった。それが、今はふたりが並び、同時に声を掛ける。どちらの声を優先に聞けばよいのか、輝明はもどかしさに悩みもがく。
《オレが物心つく頃には、千香ちゃんが常に傍にいた。共に泣き、笑う。時には意地で優劣を競うライバルであり、互いの弱みを補う仲間でもあった。ただ、好き嫌いの感情は考えも及ばなかった。そう、千香ちゃんは恋を語らう女性ではない。オレが千香ちゃんに恋の告白したら、ぶん殴られちゃうよな。ムフフ・・》
輝明はベッドの中で、幾度も寝返りながらほくそ笑む。
《だけど、愛を感じていた。不思議な愛だ。特に、母ちゃんが亡くなった後に、強く感じた。あの愛がオレを強く生かしてくれた。千香ちゃんが結婚すると聞かされたとき、オレは矛盾を感じながらも、悲しくて橋本さんに嫉妬したよなぁ。幸せな笑顔だった・・。橋本さんが亡くなったとき、千香ちゃんはオレの胸で号泣した。オレは慰める言葉を失った。あ~ぁ、オレは何と薄情な奴と嘆いた・・》
うなされ、声を出すも目は覚まさない。
《亜紀さんは、オレの前に突如現れた。オレに、新しい感情の芽生えを意識させたのは、亜紀さんだ。彼女に対する憧れは、思慕の念に変わり恋の文字がオレの脳裏を支配した。恋は悩み苦しむもの。若いオレも苦しんだ。だけど、恋は苦悩の末、一瞬にして愛へ脱皮した。微かな唇の感覚、船上の姿と二枚の絵葉書が・・》
深い眠りは体だけを癒す。輝明の脳は考えることを、しきりに催促した。
《その苦しみを支えたのは、やはり千香ちゃんの慈愛だ。千香ちゃんはオレに静穏を与え、亜紀さんの情愛は、オレに生きる希望をもたらした》
翌朝、輝明は寝過ごした。体は軽いが頭は重い。遅い朝食を食べて、急ぎ病院に出掛ける。病室のベッドに千香はいなかった。窓から外を眺めていると、車椅子に乗る千香が看護研修生に押されて戻ってきた。
「おはよう、輝坊ちゃん。寝坊したのかな? 髪の毛がクシャクシャよ」
図星をさされ、頭を撫でる。
「や、ばれたか! それで、千香ちゃんは?」
「うん、まあまあね。でも、朝食にお粥が食べられたわ」
「そう、良かったね。それで、昨晩、亜紀さんから電話が来たよ」
「本当? 内容は・・」
「事情があって、まだ日程が決まらないようだ」
千香は、本当にがっかりした様子だった。若い看護師が病室に入ってくる。
「橋本さ~ん。点滴の時間ですよ~」
「は~い。待っていましたよ~」
輝明は、千香の状況を見て安心する。兄の会社に行くことを決めた。
「オレ、ちょっと会社に行ってくる。奈美ちゃんが午後に来るからね」
「は~い、了解しました~」
点滴を準備していた看護師が、クスクスと笑いだした。
《良かった。あの調子なら安心だ》