忘れ水 幾星霜 第六章 Ⅰ
エレベーターでロビーに降りると、レンタル会社の社員が待っていた。車のキーを渡して請求書を受け取る。輝明は、千香の子供たちに連絡し、病院の住所と電話番号を知らせた。車の移動を心配していたが、無事に転院できたので安堵した様子。明日の午後、奈美が病院に訪れる約束をして電話を切った。
輝明はタクシーを呼び、家に帰る。簡単な夜食を済ませると、急ぎ風呂を浴びる。疲れ冷え切った体を湯船に浸す。体の奥から、思わず大きな溜め息が漏れた。
《ア~ァ、千香ちゃんも、ゆっくりお風呂に浸かりたいだろうな。取り敢えず、千香ちゃんが望んだ高崎に戻れて良かった。緩和ケアで家に帰れたときは、行きたい場所へ連れて行こう》
ベッドに横になり、スーッと睡魔に襲われる。テーブルの携帯が鳴った。ハッと目を覚まし、携帯を掴み耳に当てる。愛しい声が聞こえた。
「もしもし、輝君? 眠っていたの?」
「うん、眠りかけたところだよ」
「あっ、ごめんね」
「いや、亜紀さんの声で目がパッチリ開いたよ」
「うふふ・・、面白いこと。久しぶりに聞いたわ」
「アハハ・・、そうだっけ。それでね、先ほど高崎の病院に千香ちゃんを転院させたよ」
「良かったね。千香は、どうなの?」
輝明は神戸からの旅を、つぶさに説明する。ただ、千香が呟いた言葉は、亜紀に伝える勇気は無かった。
「少し疲れたみたいだけど、無事入院できた」
「あ~、それなら心配なさそうね。高崎なら、輝君も自由に行動できて安心でしょう」
「まぁ~ね。ところで、いつの便で来れるの?」
亜紀は、遅れている事情を説明した。ニュー・ヨークのテロ事件からアメリカのビザ取得が困難になった。彼女は日本国籍の為に問題ないが、ブラジル国籍のマルコスには厳しく、取得日数が不明という。
「それでね、アメリカ経由でなければ、早く行けそうなの。今、エミール航空のドバイ経由を考えているわ」
「そうか。じゃあ、それにすれば・・」
「ええ、私も思っている。北島さんに相談するわ。また電話するね」
「あの~ぅ。それで・・」
「えっ、何か足らない?」
「うん、早く会いたいです」
「あっ、私もよ。毎晩、輝君の夢を見ているわ。あなたに会いたい。愛している・・」
「ボクも、愛しています」
電話が切れ、プー、プーと空々しい通話音が耳元で鳴り続ける。旅の疲れが深い眠りに引き込んでいった。
眠りの中に、亜紀と千香の姿が揃って彼を迎えてくれた。