忘れ水 幾星霜 第五章 Ⅴ
《輝君が見せたあの瞳、私の幸せを願う思いが込められていた。出会いの三ヶ月、別々に過ごした三十年、再び巡り合えた三日間。私たちの運命は、神の偶然に弄ばれた人生なのかしら・・》
「行っちゃうね、分かれることがこんなに辛いなんて、初めて経験したよ。悲しいね、マルシア」
マルコスの言葉が、彼女を現実に引き戻す。
「うん、うん、そうね。でもねマルコス、私は二回目よ」
《そう、あの最初の別れは、心が張り裂けるほど切なく哀しかった。でも、今回は心が満たされ、彼と一緒に生きる指の温もりを感じている。だから、この別れは・・、悲しみではなく、寂しさなの・・》
旅客機が目の前を通り過ぎ、機首を上げ、夜空へ飛び立った。その先に南十字星が、キラキラと輝いている。
機内の小窓から、空港の明かりが一瞬に過ぎ去った。空港周辺の家々や街路灯の明かりも、視界から消えて行く。雲間を通り抜けると、満天の星が輝いていた。
《青天の霹靂で受け取った千香ちゃんの手紙。冷静に考える余裕もないまま、オレはブラジルに来てしまった・・。まるで夢の中の日々を過ごした三日間。果たして、これで良かったのか?》
「輝坊ちゃん、眠っているの? それとも、何か考えているの?」
「起きているよ。あっという間の滞在だったと思っていたのさ」
「ええ、私も思っているわ」
「これで良かったのかなぁ? なんだかスムーズ過ぎて、怖いよ」
「いいのよ。神様が、ふたりにご褒美をくれたと思いなさい」
「じゃあ、千香ちゃんには?」
「ん? 私には、輝坊ちゃんが幸せになったこと。それが、ご褒美よ」
「・・・」
飛行時間、約三十時間は長かった。輝明は成田空港に到着すると、高崎の兄へ電話を掛ける。千香の看護のため直接に神戸へ行くことを告げ、引き続き仕事を休む許可をもらった。空港には、千香の長女奈美と長男の貴志が迎えに来ていた。ふたりは千香の容態を心配していたが、意外にも元気な様子だったので安心する。
貴志は明日の仕事の都合で神戸には行かず、ひとり空港で別れる。奈美の運転で神戸へ向かった。途中から輝明が運転する。後部座席で親子の話が止まらない。
《良かった。普段の千香ちゃんに戻ったなぁ。子供たちも元気な姿を見て安心していた》
ブラジルから帰国後、神戸の千香の家で生活を始めた輝明。彼女の我が儘な性格には辟易するも、神戸の見慣れぬ生活を楽しく過ごしていた。ただ、千香の病状が日増しに悪くなる。歩行や会話が困難な状態になりつつあった。