忘れ水 幾星霜 第五章 Ⅵ
ブラジルから戻りひと月が過ぎた日。痛みもなく穏やかに会話ができる千香が、深刻な面持ちで輝明に相談した。
「輝坊ちゃん、私ね・・、できれば高崎に戻りたいの。だって、死ぬのなら・・、思い出のある高崎を選びたい。どうかしら?」
千香から聞いた死の言葉は、今までに何千回も聞いた。それは、彼女の遊び言葉として理解し、輝明はいつも茶化し素通りさせている。千香も承知で、彼に対しては平常心で使う。しかし、今回の言葉は違った。
《これは、千香ちゃんの心意だろう。彼女なりに考えた末の結果なんだろうなぁ》
「うん、千香ちゃんが望むのであれば、オレは構わないよ」
「そう、分かったわ。子供たちが来週のクリスマスに帰る予定だから、相談してみるね」
深刻な顔が、いつもの千香の笑顔に戻った。むしろ輝明の心の方が、暗い底へと沈んで行く。
千香の話を聞いた輝明は、東京の子供たちに内容を先に知らせた。彼は早めに病院の主治医からムンテラを受け、その結果次第で、高崎へ転院することにした。
クリスマス・イブ当日、千香は子供たちと話し合う。彼らは輝明に意見を聞く。
「本人の望むことが優先だと思う。高崎なら東京から近いし、直ぐに会える。地元だからオレも動きやすいしね」
長男の貴志は納得し、妹の奈美も了解した。
「年が明けたら、受け入れ可能な病院を調べに高崎へ行ってくるよ」
輝明は帰国後、憩いの園の電話を使って連絡を取り合ったが、ゆっくり話すことができない不便さを感じた。彼女に携帯電話を持つよう勧める。昨日に憩いの園へ電話すると、亜紀から携帯を購入したことを告げられた。
輝明は嬉しくて、時間を見ては続けて電話する。亜紀は呆れて彼をたしなめたが、喜んでいる様子だった。そして、憩いの園の電話では言えない言葉を、最後に必ず告げることができた。「愛してる」
年が明けて千香が検査入院している間、輝明は高崎に戻る。
「兄貴、迷惑掛けて悪いが、もうしばらく休ませて欲しいんだけど」
千香の病状を伝え、今後の予定を説明する。
「仕事のことは心配するな。千香ちゃんをしっかり支えてやれ、それが大事だ。お前もずいぶん世話になったし、俺の可愛い妹だと思っている。分かったな」
「うん、ありがとう・・」
ポケットから取り出したタバコを、輝明に一本勧めた。
「いや、吸わない」
「えっ、どうして? 止めたのか?」
「ん~、まぁ、そうだね。一緒に住むなら禁煙しなさいって、千香ちゃんに約束させられた」
佐兄は、笑いながら目の前で吸う。
《我慢、我慢だ。でも、もう慣れたな・・》
「それで、心当たりの病院を知っているのか?」