忘れ水 幾星霜 第六章 Ⅳ
翌朝、千香は昨晩の亜紀からの電話で、精神的に元気な顔を見せた。本人の希望もあって、高崎市内や観音山をドライブすることにした。
介護タクシーを呼び、輝明も同乗して出掛けた。観音様はタクシーの中から参拝する。忠霊塔前の駐車場から、高崎市内が一望できた。
高崎市内を望む千香のうつろな瞳。愁いをおびた横顔。輝明は黙ってその横顔を見ていた。千香がスッと輝明に顔を向ける。
「ん? 輝坊ちゃん、どうして私の顔を見てるの?」
「いや、特に意味ないよ」
「そう・・、私の顔を見て、辛い表情をしないでよ。お願い・・」
輝明は何も答えずに、外の景色に目を移す。千香もそれ以上を言わなかった。
帰りに高崎公園内から、ゆったり流れる烏川と観音山の丘陵を眺める計画だった。残念なことに、車止めで中に入れなかった。介護タクシーは、高崎城址の堀に沿って走る。
千香は、見覚えのある場所に来ると、小さく頷きため息を漏らす。ふたりの思い出が鮮明に残る街中は、輝明も心の奥がずきずきと疼き目の前が霞む。
昼近くに家へ戻る。ヘルパーの鈴木が家の前で待っていた。千香を頼み、輝明は兄の印刷会社へ行く。
「千香ちゃんは、どんな具合だ。見舞いに病院へ行こうか、と思っていたが・・」
「そう、ありがとう。それで、亜紀さんが来週の初めには、来れようになった」
「そうか、よし、大歓迎だ!」
輝明は、近況を報告すると千香が気懸かりで、直ぐに帰った。
その夜、千香の表情が険しくなったので、病院に急ぎ電話する。当直看護師が訪問看護師に連絡して、直ぐにやって来た。当直医師の指示で、救急搬送することになった。
半時後、救急車で病院に運ばれた千香は、顔を歪めたままベッドに横たわる。医師が診断している間、輝明はナース・センター前の廊下で待たされる。彼は動転し椅子に座ることもままならず、廊下をうろうろとした。
《千香ちゃん、千香ちゃん、どうすればいいんだ・・》
当直の医師が、千香の病室から出て彼を呼ぶ。
「明日、主治医から正式に報告があると思いますが、予想以上に悪化しています。今晩のところは、薬で和らげていますので、少しは痛みが落ち着いたようです」
看護師に指示すると、医局へ戻って行った。輝明は、愕然として体が動かない。看護師から呼び掛けられ、我に返る。
「金井さん、部屋へどうぞ・・」
病室に入り、千香の寝顔を見詰めた。モニターの電子音が、ピッピッピと一定のリズムで繰り返す。そのリズム音が、千香の命の音である。聞こえる限り、彼女は生きている証でもあった。
《千香ちゃん・・、千香ちゃんの命が聞こえるよ》
輝明は、命の音がいつまでも途切れないことを、心から願うしかない。彼は千香の手を握り、心の叫びを伝えた。