忘れ水 幾星霜 第五章 Ⅰ
翌日の朝、輝明が目を覚ますと、亜紀が新しいワンピース姿で千香の世話をしていた。
《やはり、似合うな。綺麗だ》
「おはよう、輝君。さあ、朝食に行くわよ」
少し恥じらう様子で、爽やかに挨拶する亜紀。輝明は、一瞬戸惑うが返事を返した。
「やあ、おはよう」
「亜紀、いいのよ。お寝坊さんはそのままで、先に行きましょう」
「分かったよう。直ぐに行くから・・」
輝明は大急ぎで洗面し着替えると、レストランに向かった。テーブルにはマルコスが、一緒に食べている。
「おっ、マルコスは早いな。おはよう!」
「ボン・ヂーア、お父さん!」
「え、な、何?」
輝明は目を丸くして、マルコスの顔を覗き見る。千香と亜紀がクスクスと笑う。
「そうよ。亜紀が奥さんなら、マルコスは輝坊ちゃんの息子でしょう」
「そうか、そうだったな。お~、我が息子よ」
輝明が大げさに声を上げ、マルコスを後ろからハグする。マルコスは首に巻かれた輝明の腕を、嬉しそうに笑いながら叩いた。
「さあ、座って早く食べなさい。あ・な・た!」
亜紀の言葉に、輝明は緊張する。だが、笑いが収まらない千香とマルコス。
《私が夢にまで見た小さな幸せ。でも、数時間後には消えて、手元には残らない》
「どうしたの、亜紀? 真剣な眼差しで・・」
「ううん、なんでもないわ。千香、しっかり食べられたの?」
「笑いながら食べたから、何を食べたか忘れた。ふふ・・」
「そう、私も忘れたわ」
《亜紀、あなたの心の中が透けて見えるわ。私だって別れるのが辛い。亜紀! もっと貪りなさい。あなたに必要な幸せよ》
「亜紀! 輝坊ちゃん!」
千香の声に、ふたりは同時に彼女に目線を合わす。
「どうしたの? 千香」
「えっ、何? 千香ちゃん」
「本当に、これでいいのね。あなたたちは・・」
「あ~、千香~、心配してくれてありがとう。私は十分よ。この数日で、沢山の事を取り戻し、ううん、受け取れたわ」
輝明は、千香の心意に胸が締め付けられ、亜紀の本音も決して安易な言葉ではないと、強く心根に受け止める。ただ、確実な答えを導けない自分に、苛立ちを感じていた。
「大好きなチア、ぼくがふたりを幸せにするよ!」
テーブルに同席していたマルコスが、三人の絡まる心の動きを察し、彼の純真な気持ちを言葉にした。