忘れ水 幾星霜 第五章 Ⅱ
「マルコス、私の名前は千香よ。チア、ではないの」
「ああ、それは、ブラジル語で親しい年配の女性や幼稚園、小学校の先生をチアと呼ぶのよ。千香・・」
「あら、まぁ~、そうなの。ごめんね、マルコス!」
千香はマルコスを呼び、抱きしめる。彼は、千香の頬に軽いキッスを返した。
食事の後、長女の奈美から頼まれているアクアマリンのペンダントを、千香が購入したいと要望した。輝明は、群馬県人会の小林会長が経営する土産店に連れて行く。
ホテルに戻り、荷物を整理してトランクに詰める。
「輝坊ちゃん、来たときと余り変わらないわ」
「いや、見えない荷物で一杯だよ」
「あら、そうかしら。見えない荷物って、なんなの?」
輝明は胸を叩き、千香に示した。
「ここに、沢山詰め込んだから・・」
「あっ、そうかぁ。そうよねぇ。あ~、重たいわ。うふふふ・・」
近くで聞いていた亜紀が、トランクを持ち上げる。
「千香、私の置き土産の方が、潰されるほど重いわよ」
「じゃぁ、どちらが重いか比べてみる?」
「当然、私の方が重いに決まっているわ。だって、ふたり分よ」
輝明は、ふたりの会話を黙って聞いていたが、自分が一番重いと感じていた。
「見目麗しき女性が、何を争っている。ふたりとも引き分けだよ」
「そうね、引き分けにしましょう。亜紀さま・・。ふふふ・・」
マルコスがトランクを受け取り、下のフロントへ運ぶ。少し早いが、北島が迎えに来たのでホテルをチェックアウトし、予定通りに車窓からのイビラプエラ公園、イピランガ独立記念像やサン・パウロ歴史博物館などを市内観光した。
そのまま、グァリュ―ロス、サン・パウロ国際空港へ向かう。後部座席に三人が並んで座る。窓側の輝明と千香は、それぞれの景色を眺める。亜紀は前方の景色を見詰めていた。ただ、亜紀の両手は両サイドのふたりに握らている。
沈黙に耐えられない輝明が、コホンと咳払いをして反対側の千香に伝えた。
「千香ちゃん、亜紀さんに話すことがないの?」
「まあ、どうして私に振り向けるの。輝坊ちゃんが話すべきよ」
実は、亜紀も困っていた。
「そう、私も話そうと思っていたけれど、話題が浮かばないの」
「なぁんだ、三人とも同じことを考えていたのね。北島さん、どう思うかしら? 妙な三人でしょう?」
「いやいや、私も困ります。なんと答えてよいやら・・」
運転手のセルジオが堪えきれずに、笑い出した。すると、車中は大笑いとなる。