ア・ブルー・ティアズ (蒼き雫) Ⅱ
白い雪に覆われた浅間山が陽に輝くほど良い天候であったが、澄んだ秋の空気に冬の冷気が流れ込む夕刻から、冷たい雨模様に変わった。雨は次第に強くなる。
夜十時過ぎに、救急隊から受け入れ要請の電話が入った。
「はい、F病院ですが」
「中央救急の狭山です。三十代の男性が側溝の中に転倒。呼びかけに反応が無い状態です。受け入れできますか?」
私は、当直の藤田先生に報告して受け入れの確認をとる。
「はい、受けます。では、お名前と年齢を教えてください」
「ありがとうございます。名前は佐藤正直さん、三十八歳です」
「どのくらいで来られますか?」
「十分ほど着きます」
当直の救急担当看護師の富山さんに連絡。十五分後、救急搬送口に救急車が到着した。搬送口に待機していた私が扉を開け、ストレッチャーを中に誘導する。看護師と救急隊員が慣れた動作で男性を視察台の上に移す。
男性の口から強いアルコール臭を嗅ぎ、藤田先生は顔をしかめる。横に立つ搬送の救急隊員に尋ねた。
「お酒をかなり飲んでいるようですね」
「はい、泥酔状態でした。詳しいことは、後から来るお姉さんが説明しますので・・」
「そうですか、分かりました」
藤田先生は頷き、看護師に酸素吸入の挿管と点滴の準備を指示する。数枚の毛布に包まれ診察台の上に横たわる無表情の男性。
「聞こえますか? ここは病院です。私は医師の藤田と言います。安心してください」
男性の耳元に口を近づけて問い掛けた。だが、まったく反応が無い。先生が外傷の無い頭部に触れると、わずかに反応を示した。藤田先生は納得して軽く頷き、私にレントゲン技師の手配を指示した。
私は、隊員から男性の名前と住所、生年月日などを確認。事務所に行き自宅待機のレントゲン技師に電話連絡してから、忙しなくカルテの作成を始めた。受付けに男性の姉夫婦が現れたので、すぐに救急診察室へ案内した。
作成したカルテを持って診察室に行くと、姉が沈痛な声で先生に説明していた。時折、声を詰まらせ話が進まなくなる。藤田先生は辛抱強く姉の話を聞いていた。
「弟は、東日本東北地震の津波で家族を失ったの。家を離れていた弟は、地震後に家へ戻ろうとしたけどアッという間に津波が押し寄せ、危うく高台へ逃げ延びた。黒く濁った津波に、ただ茫然と眺めているしかなかったという。
長く苦しい避難所生活を送りながら、必死に家族の行方を探し求めていた。二週間後に、倒壊家屋の中に三人が抱き合ったまま発見されたわ。弟のことが心配で、高崎に呼んだの」
患者がCTを撮る間、藤田先生は姉の話を親身に聞く。救急隊員も先生の病状報告を待ちながら、患者の過酷な体験を沈痛な思いで聞いていた。
「高崎に越してきた当初は、前向きに生活を考え笑顔も見せていたけど、震災の恐怖と家族への思いが、弟の心と体を蝕み日々酒浸りの生活になってしまった。私の家族を寄せ付けない。思いやりの言葉には、さらに拒絶反応を見せたわ」
姉は涙を拭きながら語る。
「この日は、雨が降っているからと強く止めた。でも、無視してフラフラと買いに行ってしまった。それで、この事故に・・」
藤田先生は、画像の結果から脳障害の疑いで集中治療室へ入院させる。救急隊員は先生から搬送報告書に病状とサインを記入して貰うと引き揚げた。
日付が変わり、診察室が静かになった。照明を消し戸締りを済ませ、事務所に戻って一息入れることができた。当直室で仮眠しようと横になったが、患者の佐藤のことが頭から離れない。
《津波の体験は、いつかは取り除くことができるかもしれないが、家族への思いは到底消し去ることはできない。妻や幼い子供への愛情が、一瞬にして断ち切られた。それも理解できないままだ。彼が、酒を浴びるほど飲んでも、現実を誤魔化すことは無理だと思う。せめても、あの場に自分がいればと悔やみ、重い自責の念に苦しんでいたのだろう。もうこの世で二度と会うことが叶わぬなら、自分から死の淵を渡るしかないと考えたかもしれない》