忘れ水 幾星霜 第四章 Ⅶ
サントスまでは、一千メートルの海岸山脈をトンネルと橋で一気に下る。新イミグランテス(移民)街道は、片道二車線でカーブも少なく快適だ。サンパウロから一時間ほどでサントス港に着いた。海岸道路を抜けて、ホテルやマンションが並ぶグウァルジャーの浜辺にやってきた。
北島の通訳セルジオが、見晴らしの良い小さな岬へ案内する。潮風が心地よく、海岸山脈の映える新緑と大西洋の眩い紺青の海が、絶妙なコントラスト。車から降りた一行は、その絶景に大喜びであった。
その岬のこぢんまりしたレストラン。海側に洒落たテラスがあり、白い椅子と大きなパラソルのテーブルに一行は座り休憩をした。
「千香ちゃん、素晴らしい眺めだね」
「まさに南半球の大西洋ね。本当に輝坊ちゃんと来たのね」
千香がおもむろに立つ。輝明が腕を支えるが、彼女の体が心なしか震えている。遥かな水平線に視線を置き、一筋の涙が頬を伝い落ちた。
「もう、私は十分よ。輝坊ちゃん・・」
「ん? 何が十分なんだい?」
ふたりの後ろに立つ亜紀は、声を掛けることができなかった。ふたりだけの不思議な思いやりが、亜紀の心にひしひしと響く。
《私は幸せよ。このふたりに出会え、愛することができた・・。感謝します》
三人が見詰める水平線は、三十年の時空に匹敵する遥かな隔たり。
《輝坊ちゃん、亜紀、幸せになってね》
《あの出会いから三ヶ月。横浜埠頭から三十年。今、こうして亜紀さんと千香ちゃんが一緒にいる。それもブラジルにいる。不思議な時間だ。ひとつの偶然から始まり、いくつもの偶然に翻弄されたオレの人生。奇妙なドラマだったな・・》
「ウフフ・・、アッハハハ・・」
輝明が、唐突に笑い出した。周りが唖然として見る。
「輝坊ちゃん! あら、頭が壊れちゃったの? うそ、やめてよ~」
「セニョール・カナイ、平気なの?」
「あ~、ごめん、ごめん。自分の人生を考えたら、滑稽で笑ってしまっただけ・・」
「何が滑稽なの、輝君?」
「ん~、何が? 亜紀さん、難しい質問だね。ん~、偶然の一文字かな」
しかめ面で聞いていた千香が、パッと瞳を輝かした。
「うん、私は分かったわ。そう、あなたの人生は偶然の塊よ」
「マルシア、グウゼンって、なに?」
「そうね、偶然はポール・ア・カゾ」
「そうか、ヴィダ(人生)はポール・ア・カゾなんだ」
突然の笑いを理解した一同は、それぞれが注文した飲み物を口に含んだ。
時が経つにつれ、海岸の日差しが強く肌を射す。千香の体を考え、サン・パウロへ戻ることにした。