忘れ水 幾星霜 エピローグ Ⅰ
伊香保から戻った日の夜に、兄家族や会社の従業員を交えた親睦会に呼ばれる。その場は、輝明と亜紀の話題で終始過ごした。輝明は憮然としたり、顔を赤らめたりと忙しかった。亜紀は彼の様子に笑いが止まらない。マルコスも久しぶりに笑顔を取り戻す。
輝明が会社に行っている間、亜紀はマルコスを伴い高崎市内を散策した。記憶を呼び覚ます場所に出会うと、立ち止まって黙想に耽る。マルコスの優しい気持ちは、彼女の心意を推し量り共に立ち尽くす。
千香の初七日の法事を済ませた翌日、亜紀とマルコスはブラジルに帰る。成田国際空港の出国ロビーは、忙しなく動き回る人々の姿で混雑していた。外は夕暮れの厳しい寒さであったが、中は人いきれでむっとする暑苦しさを感じる。エミール航空のカウンターで出国手続きを済ませ、階上のレストランで夕食をした。
「ブラジルに帰ったら、この寒さも忘れてしまうわね」
「じゃあ、帰らないで日本に住んだら・・」
輝明が、思わず本音を口走った。
「えっ? そんな・・」
「あっ、ごめん・・。千香ちゃんがいなくなり、亜紀さんが帰ってしまったら、孤独で辛く寂しい・・」
「・・・」
亜紀はテーブルの一点を見詰め、ただ黙ったままだ。輝明は天を仰ぎ、大きく息を吐く。それ以上は口に出せなくなった。ふたりの雰囲気を感じたマルコスが、散歩してくると言って席を外す。
「やあ、マルコスに気まずい思いをさせたなぁ」
亜紀が、面を上げ真剣な眼差しで、輝明の瞳を直視した。
「輝君! あなたの気持ちを苦しいほど理解しているわ。私だって、いつまでも輝君の傍にいて抱かれたいもの。でもね、日本へ来る前に園の礼拝堂で考えたわ。大聖堂のあなたの言葉と指輪を信じ。私を救ってくれた憩いの園の大切な仕事など。礼拝堂で感じたことを、私は実行すると決めたの。それは、洗礼を受け・・」
「えっ、まさか尼僧になるの?」
「違うわよ。洗礼を受けて神様と誓うこと。輝君との愛が永遠に続き、決してあなたを失望し裏切らないために・・。だから、私を信じてね」
「・・・」
《そうだ、確かにオレは約束した。あれでいいと・・。オレは、愛する彼女の幸せを考えればいいんだ》
「輝君、わがままを言ってごめんなさい。これまでに幾つもの偶然が、奇跡を起こしてきたでしょう。いちばんの喜びは、あなたの妻になれた偶然の奇跡よ。この幸せを大切に育み生きたいの」
「・・・」
「もしもよ、一緒に暮らすことで、あなたとの愛が壊れてしまったら、私独りで生きて行く自信がないもの」
「・・・」
「私だけでなく、輝君の幸せのためにも帰る。だから、許してね。愛しているわ」