一週間ほどが過ぎた日の朝。マルガリーダ園長のみが本名を知っている別棟の孤老(職員たちがタロウさんと呼ぶ)が、アジサイの蕾が綻び始めたことを亜紀に伝える。 施設の裏手に小さな日本風の庭があり、二十株のアジサイの花が植えられていた。亜紀は確かめに行く。 「本当だ、白い花弁がうっすらと見えるわ。タロウさん! 満開になるのは、いつかしらね」 「そうだね・・、一週間後・・、かな?」 「私ね、この時期に…
「そうでしたか・・」 亜紀も緊張が和らぐ。目の前のカップを手に取り、カフェを飲む。苦みの中に甘さが口中に広がった。 「あなたのことは、すでに手紙で報告しました」 「えっ、本当なの? それで・・、返事は来たの?」 「いえ、視察を終えてサン・パウロに戻ってから、九月の初めに送りました。そろそろ返事が来るでしょう」 ふたりは、しばらく雑談を交わしてから別れる。北島はホテルの玄関口まで同行して、彼女…
《諦めていた夢が・・、どうすればいいの。やっと、辿り着いた心の安らぎ・・。マリア様、私の心を導いて下さい》 亜紀は朝の仕事を済ませてから、マルコスにホテル・ニッケイまで送ってもらう。 「マルシア! 帰りは、どうするの?」 「そうね、いつ終わるか分からないから、先に帰って・・。あっ、待って! 帰りに事務所へ寄るから、誰かに伝えてね。チャオ、マルコス」 「分かった。マルシア、チャオ」 車がホテル…
「ええ、見ず知らずの人間が、突然に自分の名前を知っているなんて怖いですよね。実は、橋本千香さんから依頼されて、あなたを探していました」 「えっ、橋本千香? だれ・・」 「私の大学の恩師、橋本教授の奥様です。確か、高校時代の仲の良い同級生で・・」 《ま、まさか、あの千香のことなの?》 亜紀の頭の中に、千香の顔が目まぐるしく映し出された。 「ちょ、ちょっと待って! もしかして、植原千香のこと?」 …
サン・パウロ市郊外の十月は未だ春の気候だが、照りつける日差しは夏のように強い。 亜紀は朝食の片づけを済ませてから、中庭へ向かった。昨日の午後、礼拝堂脇の花壇に植えたスミレの苗が整然と並ぶ。紫色の可憐な花をイメージしながら、白いTシャツの彼女は小石や雑草を取り除く。 「亜紀さん! 朝からご苦労さま、園の皆さんがさぞや喜ぶでしょうね。私も楽しみにしているわ」 憩いの園事務長の佐和が、片手で日差…
「もしもし、千香ちゃん? オレだけど」 「元気だった? 手紙を読んだかしら、どう思う?」 「ああ、読んだよ。体の具合は大丈夫なのかい? 確か、二年前に大腸のポリープを取り除いたよね。関係があるの?」 「うん、膵臓や他に転移したみたい・・。無理しなければ平気よ。心配してくれてありがとう。それで、私の提案は?」 「分かっている。でも、少し考えるよ」 「だめ! 考える必要はないでしょう。気の毒な病人な…
人の歳月は、お構いなしに過ぎ去る。輝明は、千香からの手紙に集中する。 【北島さんから報告の手紙が届いたの。驚いたわ。 八月に、サン・パウロから一千キロ離れた南マット・グロッソ州の日系農場を訪れたとき、偶然にも亜紀のお兄さんの農場だったの。 でもね、亜紀は一緒に住んでいなかった。彼女は環境になれず、心身ともに苦しんでいたそうよ。日本を離れて五年後に、流行り病でお父様が亡くなりお母様も看病から…
{ボォーッ、ボォーッ} 続いて、出航を知らせる鋭く高いドラの音が聞こえる。 {ジャ~ン、ジャン、ジャン・・} 船を見送る人々の歓声が、一段と上がる。 「輝坊ちゃん、先に行って!」 遅れ気味の千香が、輝明の背中を押した。彼は無言で千香の手を掴み、一緒に行くことを望んだ。どうにか移住船ブラジル丸の出航に間に合うが、デッキに連なる人の群れから、亜紀ひとりを探すのは容易ではなかった。 {ボォーッ、…
《なに、その涙? なに、その言葉?》 輝明は、単に美しい景色に感嘆したからとは考えられない彼女の涙の言葉を、不思議な思いで聞いていた。彼はリュックサックのポケットから、小タオルを取り出して亜紀に渡した。 「ありがとう・・。私って、だめね。直ぐに泣いて・・」 「いいえ、ここに案内して良かった。こんなに喜んでもらえて・・」 「ええ、そうよ。とても感激よ。さて、お弁当を食べましょうか?」 「そう、そ…
翌朝、快晴のハイク日和。待ち合わせの高崎駅西口のバス停前。輝明が待っていると、爽やかな浅緑のブラウスに紺のスラックス、紺のリュックサック姿の亜紀が現れた。長い髪を小さな浅緑のリボンで束ねている。輝明は新鮮な気持ちでうっとりと見ていた。 「お待ちどうさま。何をそんなに見ているの? 私の格好がどこか変かしら?」 「いいえ、とても素敵なので、目が眩み倒れそうです」 「まぁ~、そんな言葉、どこから思い…