ガタガタと列車が揺れる。大宮駅の構内に近づき車内が薄暗くなったが、直ぐにプラット・ホームの照明で明るくなった。大宮駅に予定より十五分遅れて到着。ふたりは駅の構内を走り抜け、京浜東北線の始発ホームに辿り着いた。発車ぎりぎりに乗り込めホッとする。 車内は座れる状況ではなかった。仕方なく、吊革にぶら下がる。ふたりは会話も無く外の景色を眺めながら横浜へ向かう。輝明は車窓に目を置きながら、考えていた。…
「え、あの詩? 本当ですか?」 「もちろんよ。ええ、素敵に感じたわ」 輝明の初めてのデートは、瞬時に過ぎた思いであった。一秒でも長く一緒に過ごしたいと願っていた彼だが、亜紀に予定があるというので無念にもお開きとなる。だが、別れ際に嬉しい誤算が残っていた。 「実は、あなたのことを千香に伝えたわ。彼女、びっくりしていた。でも、あなたを輝坊ちゃんと呼んでいたけど、本当なの?」 「はい、親せき中で呼ば…
彼は、車窓に流れる景色に目をやりながら、文面を思い出す。 「夢中で書いたから、すべてを思い出すのは無理だけど・・」 「それでいいから、早く聞きたいわ」 輝明は目を瞑り、書いた文字を思い浮かべ、甦る言葉を口に出した。 「生まれて生きること。そして、死ぬことは必然ではなく、偶然という奇跡によって成り立っている。・・・、人の出会いも偶然という奇跡が引き起こす。あなたと偶然に出会えた。その・・、ん・…
「ふふ・・、宛名不在で戻ってきた。そうでしょう?」 「えっ、どうして分かったのさ?」 輝明の驚く様子に、千香はほくそ笑み喜ぶ。 「だって、久しぶりに会ったあの日に、ラ・メーゾンでケーキを食べながら卒業後の話をしたの。そのときに、亜紀が末広町へ越したことを教えてくれた。それで・・、輝坊ちゃんは誰から?」 輝明が答えようとするとき、ガクンと列車が揺れて速度が緩やかになり、熊谷駅のプラット・ホーム…
「参加した五校の上演が終わり、その場で反省会をしたんだ。オレは司会をしながら参加者の顔を確認し、その人を探した。後ろの席に座っているのを見つけ、軽く会釈すると優しく微笑んで・・」 輝明は、しばらく口を閉じてしまった。彼の恥ずかしい核心に触れる。いくら千香であっても、話すことに躊躇した。 「その人を一目で好きになっちゃったのね。別にいいじゃない。誰にでもあることよ。さあ、続けて・・」 《やっぱり…
印刷工場から近い高崎駅東口に、ふたりは忙しなく着いた。改札口の時刻表を確認し、十二時三十五分発の特急ときに乗車。特急で大宮駅へ行き、京浜東北線に乗り換えれば時間短縮が可能であると、千香が考えたからである。 席に着くなり、プラット・ホームの売店で菓子パンとジュースを買っていた千香が、輝明に手渡す。 「はい、腹ペコでしょう。食べよう」 「うん、ありがとう。気が利くね」 「輝坊ちゃんの分は、可哀そ…
《初めて触れる亜紀さんの手。オレは離したくない。亜紀さんが何を考えているのか、オレには理解できなくてもいい。オレは好きだ。別れたくない!》 亜紀が縁石から降りて、彼に近づく。それは自然の成り行きなのか、彼女の意志によるものなのか。亜紀の瞳は、輝明の瞳を離さない。輝明は、彼女の手を離さない。 《私は何をしようとしているの。輝君、ごめんね。あなたを弄んでしまったわ。でも、でも・・、私、分からなくな…
夜景を眺める亜紀の横顔が、ネオンの様々な色彩によって幻想的に見える。 《あ~ぁ、亜紀さんの横顔は、なんて美しいんだぁ~》 彼女の心肝にある複雑な感情に触れることなく、ただ見惚れる輝明であった。窓ガラスに映る亜紀の目線と重なり、彼女が微笑む。 《えっ、えっ!》 その微笑みに、輝明の心は乱れ目線を逸らす。しかし、惨めな自分と思いながらも、彼は亜紀の横顔に心が奪われてしまう。 《輝君、真剣な顔で…
「そうなの、ごめんね。亜紀から口止めされ、日本を離れてから渡すようにと約束させられたの。でもね、輝坊ちゃんの気持ちを思うと、我慢できなくて約束を破って来ちゃった。まだ、間に合うわ。ねっ、早く見送りに行きなさい」 千香の言葉をうわの空で聞いていた輝明は、力の無い声で礼を言った。 「ありがとう・・、千香ちゃん。オレは、もう・・」 《なんだよ、この手紙。オレには意味が分かんないよ。どうして?》 釈…
三十年前、高校三年生の輝明は、兄が経営する印刷工場の一室に独りで生活をしていた。 十二月の初旬、身が凍みるほど寒い日曜日の朝。 「おーいっ! 輝坊、いるか~?」 事務所の輝明の兄が、オフ・セット印刷機の大きな音に負けない声で彼を呼んだ。この数日、気持ちがすっきりしない日を過ごしていた彼は、苛立ちを露わにあらん限りの声で答えた。 「なんだよー。オレは忙しんだー、特に今はー」 「お前にべっぴん…