日本航空JAL021便、十四時間ほどのフライトで到着したニュー・ヨークだが、わずか一時間半の休憩で再び夕間暮れのケネディ国際空港を飛び立った。それから十時間が過ぎたころ、左翼側の小窓の隙間から熱帯特有の強い陽の光が射し込んできた。 機内の照明が灯り、客室乗務員がホット・タオルを配り始めると、あちらこちらから背伸びをする声が上がる。 《ふう~、もうすぐだなぁ》 輝明は、疲れと不安で大きなため…
松原君が病院に運ばれ、たった今、亡くなった。佐野先生は嗚咽を必死に堪え、途切れ途切れに伝える。 「浩ちゃんは・・、『全身が・・焼けるように・・熱い、熱い』と・・言いながら、息を・・引き・・取ったの・・」 「・・・」 「付き添った・・、大・・大好きな・・お祖母ちゃんの・・手を握って・・」 「・・・」 私は、黙って聞くしかなかった。言葉より浩ちゃんの顔が、頭の中でグルグルと描き出されたからだ。 …
松原君は、他の生徒との交流が苦手だった。嫌な思いを自分なりに描いている。手術によるしゃがれた声が、うまく相手に伝わらないと心配していた。そして、大きな音や声に鋭く反応し怯える。近くの誰かが叱られると、自分が叱られたと思い涙し悲しむ。 松原君に付き合うほど、彼の感受性の強さは私の体や心に深く浸透していった。だが、彼の心の痛みや叫びを、聞くことも感じることも叶わなかった。松原君は独りで耐え、学校…
ゆうあい教室に戻ると、松原君が将棋盤を見詰めていた。しかし、心は別なところを彷徨っている。 「浩ちゃん、カルタでは勝てないけど、先生は将棋が強いぞ」 私は、彼の気持ちをスライドさせようと、軽い声で試みる。ところが、この後に、彼が持つ真意の優しい心ばえを感受させられた。 「先生・・、ボクは・・、ボクは」 「どうした? ん、やろうよ」 箱から駒を出し、将棋盤の上に広げた。駒を並べるよう急き立て…
梅雨明けの本格的な夏の日差しが、校庭の隅々を容赦なく熱していた。 その日の三校時が終わる頃、柴田母子が学校に現れた。柴田君は車中から出ようとしない。登校したことを聞いた松原君が、急いで三階から降りて駐車場へやって来た。炎暑の下で汗だくになりながら、彼らしい優しさで柴田君を教室に誘う。 しばらくして、後部座席のドアが開いた。松原君は手を叩き大喜び。佐野先生と小池先生にガッツポーズする。三階の…
柴田君の家の窓は、カーテンがしっかりと閉じられていた。庭から呼び掛けるが反応しない。野中先生は用意していた手紙を、玄関の戸口の隙間に挟んだ。 「柴田君、来週にお母さんと一緒に来てね」 姿の見えない相手に声を掛けた。 「松原君が待っているよ。一度、顔を見せてあげてね」 私も姿を現さない柴田君へ伝える。 「さあ、帰りましょう。来週のカンセリングに来られよう、お母さんにお願いしておきました」 …
スクール・カンセラーの野中先生が、私に近寄って来た。 「宮崎先生、今日は不登校生徒の家へ訪問しますか?」 「はい、これから出かけようと思っていました」 野中先生は、毎週水曜日に生徒や保護者のカウンセリングを担当している。 「では、私も柴田君の家に訪問したいので、一緒にどうですか?」 「ええ、構いませんよ。」 「じゃあ、お願いします」 今日の相談予定が午後の遅い時間になっているため、予定の無…
その翌日。二校時終了を知らせるチャイムが鳴り、私が職員室から廊下へ出ると体育着の松原君と出会った。手には体育館用シューズをぶら下げている。 「おはよう、松原君」 「・・・」 彼は私の顔を白目で見る。無言のまま行ってしまった。 「随分、機嫌が悪いようだな」 仕方なく反対方向の廊下を行く。数歩行くと、咄嗟に思い出した。 「あっ、そうか。松原君でなく、ひろちゃんか・・。まずいことを言ってしまった…
鮮やかな青葉に囲まれた校庭は、透き通る陽の光に照らされている。本校舎から東校舎への渡り廊下を歩きながら、私はその風景を眺めた。 東校舎に入ると、冷ややかな空気がそっと顔を撫でた。突き当りの第二理科室から、生徒たちのささめきが聞こえる。静かに階段を上がる。三階の踊り場の窓。そこから眺める景色が、私は好きであった。 青々とした麦畑、その向こうに葉桜の古木に囲まれた小さな墳墓の丘。五月の清々しい…
「えっ、前にも?」 「冷静になれ、君も見えるはずだ。あの時、千代が能力を与えた・・」 若月は目を閉じ、気持ちを穏やかにする。 「あっ、確かに見えます。前の人からは、鋭さを感じない」 電車が停まった。いつも通り最後に降りる。改札口を抜け駅前に出た。ポツリポツリと雨が落ちて来たので、ふたりは早足で家路に向かう。家に着くと、すべての明かりを点けた。 若月に夜食を任せている間、私は沈香を焚いた。香…