私は、彼が置いて行った二千円を掴み、レジに支払う。急ぎ店を出た。 外は予想以上に寒く感じ、オータム・コートの襟を立てる。その後、当てもなく歩き、高崎城址公園に来てしまった。 色あせたベンチに座り、疲れた足を労る。人影が少ない。喫茶店のことを思いだした。寂しさはあるが、不思議にも悲しみの涙はない。彼の裏切りと私の失望が、憤懣の念と憐憫の情を相殺させたのであろう。 いや、もしかして、あの最後…
暮秋の午後、高崎城址公園の古く色あせたベンチ。日溜まりの温もりを求め、心虚しく座る。目の前に噴水を止められた池。水面に視線を向け茫然と時を過ごす。 足元の枯れ葉が風に煽られ、カサカサと忙しく転がる。使い慣れた薄茶色のバックからヘア・バンドを取り出し、長い髪をひとつに纏めた。 思わぬ破局に心は戸惑い嘆くが、誰の慰めもいらない。サマリア人の一滴の涙さえ必要としない。強いて新たな恋を求めるべきか…
輝明は、渋々と頷くほかなかった。 「前と違って、今は電話で話せるからね。平気でしょう? あなたの声を聞きたいから、ちょくちょく電話をしてね」 「うん、分かったよ。毎日、毎晩電話する。寂しくなったら、ブラジルへ行くさ」 「まあ、それはやり過ぎよ。いい加減にして・・。うっふふ・・」 「そうか、電話代で破産しちゃうよな・・」 亜紀はレストラン内を見渡してから、輝明の横に座りサッと唇を交わす。輝明は…
伊香保から戻った日の夜に、兄家族や会社の従業員を交えた親睦会に呼ばれる。その場は、輝明と亜紀の話題で終始過ごした。輝明は憮然としたり、顔を赤らめたりと忙しかった。亜紀は彼の様子に笑いが止まらない。マルコスも久しぶりに笑顔を取り戻す。 輝明が会社に行っている間、亜紀はマルコスを伴い高崎市内を散策した。記憶を呼び覚ます場所に出会うと、立ち止まって黙想に耽る。マルコスの優しい気持ちは、彼女の心意を…
翌日、輝明と亜紀は伊香保温泉に出掛ける。その途中、水澤観音を参詣してから、忘れ水が流れる場所を訪れたいと、亜紀が希望した。以前には無かった裏手の駐車場に車を停め、登山口に向かう。 「あら、随分変わってしまったのね」 現在は、登山口から頂上まで整備されている。 「そうさ、若くないボクにも無理なく登れる。度々訪れても、苦にはならなかったよ」 「そうなの? そんなに来ていたんだ輝君は・・」 輝明…
祭壇の上から優しい笑顔に愁いを帯びた瞳。輝明にとって、決して忘れない愛する千香の顔である。亜紀には、心を許せた最愛の友であり、彼を結び付けた恩人でもあった。 「不思議ね、私が、千香の家族として見送るなんて・・」 「うん、不思議なことだね。これも偶然かな?」 「そうね、千香が笑っている。そうよ、偶然なのよって・・」 形なりの葬儀が終わり、バスと車で寺尾の斎場へ向かう。千香の白い棺が、霊柩車から…
兄夫婦に、亜紀とマルコスを初めて紹介する。 「亜紀さん、輝坊を宜しく。今、祝うことができない状況で申し訳ない。滞在中に、ゆっくり食事をしたいと考えている」 「いいえ、お兄さんのお気持ちだけで十分です。彼がマルコスです」 マルコスは緊張して、顔を下に向けていた。 「ええ、承知しています。マルコス君、宜しくね」 マルコスは顔を向け、真面目に頭を下げる。輝明が彼の肩を抱き寄せ、緊張を和らげた。売…
「そうだよ。亜紀さんだ。それにマルコスも・・」 千香は幾度も頷く。亜紀は千香の胸に覆いかぶさり嗚咽する。千香が亜紀の頭に手を添え、抱き締めた。その千香の手に、輝明は彼の手を重ねる。 「千香ちゃん、やっと夢が叶えられたね。この高崎に三人が揃ったよ」 「うん、嬉・・しい・・わ。良か・・ね。て・・る・・坊・・ちゃ・・」 「千香、千香ぁ~」 輝明は、緊急に奈美と貴志に連絡した。病院に近いホテルにいた…
亜紀は奈美から離れ、千香に近寄る。千香の顔を間近に見ながら、小刻みに震える手で頬に触れた。 「遅くなって、ごめんね。千香・・、あなたの好きなマルコスを連れて来たわよ」 マルコスを呼び、千香に会せる。 「チア、チア・・。会いに来たよ。大好きなチア・・」 千香の顔が、ほんの僅か反応したように見えた亜紀と輝明。だが、それは錯覚に過ぎなかった。重い空気に包まれる。 「奈美ちゃん、これから貴志君が来…
慣れない首都高速から外環道を回って、ようやく関越道に入ることができた。高坂のサービス・エリアで休憩する。初めて見る光景に亜紀とマルコスは、輝明の傍から離れられない。とりあえず、ふたりをトイレに案内する。 幾らか落ち着いてきた二人を、レストランに連れて行く。 「さあ、何が食べたい?」 「輝君は、何を食べるの? 私には分からないわ。マルコスが困惑している。あなたに任せるわ」 「そうか、じゃぁ、か…