忘れ水 幾星霜 第七章 Ⅲ
亜紀は奈美から離れ、千香に近寄る。千香の顔を間近に見ながら、小刻みに震える手で頬に触れた。
「遅くなって、ごめんね。千香・・、あなたの好きなマルコスを連れて来たわよ」
マルコスを呼び、千香に会せる。
「チア、チア・・。会いに来たよ。大好きなチア・・」
千香の顔が、ほんの僅か反応したように見えた亜紀と輝明。だが、それは錯覚に過ぎなかった。重い空気に包まれる。
「奈美ちゃん、これから貴志君が来るのかな?」
「ええ、そろそろ来る頃だけど・・」
「オレがいるから、ホテルに帰って休みなさい」
「ん、いいえ、平気よ。私より亜紀さんたちが疲れていると思う。先に休ませて・・」
「そうか、ありがとう。じゃあ、頼むね」
輝明は千香の頭を軽く触れてから、亜紀とマルコスを連れて家に帰る。
「輝君・・、千香の容態は、予想以上に深刻な様子ね」
「うん、早かった。考えもしなかったよ」
ソファに並んで腰掛け、熱い紅茶で体を温める。
翌日、簡単な朝食を済ませ、ふたりの冬着を買いにファッションの店へ行く。
「この寒さを忘れてしまったわ。マルコスは凍え死んじゃうと大騒ぎ。これで凌げるでしょうよ」
「うん、温かいよ。ありがとう、パパィ」
「そうか、良かったな。さて、病院へ行こうか」
病室には、貴志が待っていた。ふたりを紹介する。
「貴志君、オレと亜紀さんが見ているから、昼食にマルコスを頼めるかな」
「はい、いいですけど、彼は日本語を話せますか?」
「平気だよ。全然、問題ない。ねえ、パパィ?」
「ああ、大丈夫だよ、貴志君」
「それなら安心だ。じゃあ、ファミレスにでも行こうか?」
若いふたりは、握手すると話しながら出掛けた。室内が、一瞬静まり返った。輝明と亜紀が、ベッドの千香を見守る。
ガラス窓が、北風に揺さぶられガタガタと音を立てる。空は、どんよりと重々しく曇っていた。
「ううん~、ん?」
千香が薄く目を開け、ベッド近くの亜紀に気付いた様子。
「あ、亜紀・・なの?」
か細い声で尋ねる。輝明と亜紀が椅子から立ち上がり、千香の顔を覗いた。
「ええ、私よ。千香・・、亜紀よ」
点滴のチューブに繋がれた悲惨な腕を、千香は辛うじて伸ばす。亜紀はその手を受け入れ、しっかりと握った。
「ほん・・と・・うに、亜紀、亜紀・・なの・・ね?」