忘れ水 幾星霜 第七章 Ⅴ
兄夫婦に、亜紀とマルコスを初めて紹介する。
「亜紀さん、輝坊を宜しく。今、祝うことができない状況で申し訳ない。滞在中に、ゆっくり食事をしたいと考えている」
「いいえ、お兄さんのお気持ちだけで十分です。彼がマルコスです」
マルコスは緊張して、顔を下に向けていた。
「ええ、承知しています。マルコス君、宜しくね」
マルコスは顔を向け、真面目に頭を下げる。輝明が彼の肩を抱き寄せ、緊張を和らげた。売店から缶コーヒーを買って、テーブルに並べる兄嫁。
「心配していた輝ちゃんに、奥さんと息子が一度にできた。これでお父さんもホッとしたでしょう。さあ、飲んでちょうだいね」
「あ、姉さん、ありがとう。はい、マルコスも飲んで・・」
「嫁と甥が一遍にでき、喜ばしいことだ。デレデレとした輝坊の顔は、本当にみっともない顔だなぁ」
横でにこにこしていた輝明は、兄の言葉にムッとする。その様子に、亜紀は目を丸くして笑い出す。半時ほど雑談してから、兄夫婦は帰って行った。
千香の意識は戻らないまま、二日が経った。昨晩未明から雪が降り始め、朝には薄っすらと積もる。
輝明の肩に頭を乗せ、うたた寝をする亜紀。千香の様子を時折見ながら、オマル・ハイヤームのルバイヤート(四行詩)を読んでいた輝明。一定のリズムを刻んでいたモニターの電子音が、突如、聴き慣れないピーッという不可解な電子音に変わった。
輝明は慌てて亜紀を起こし、コールボタンを押した。直ぐに夜間当直の看護師が駆けつけ、状況を判断すると院内携帯で当直医に知らせる。医師が来る間、輝明は貴志と奈美に連絡。兄とマルコスにも伝えた。
病室に戻る。亜紀の手を握りながら、医師の言葉を待った。
「二月三日午前五時十二分、患者様は息を引き取りました。お悔やみ申し上げます」
輝明と亜紀は互いの手をしっかり握りしめ、医師に対し静かに黙礼する。医師と看護師が病室から出て行った。室内は三人だけになった。ベッド横にふたりは並んで座り、千香の眠る顔を見詰める。
「千香ちゃん、お疲れ様。ようやく苦しみから解放されたね。さようなら・・」
「千香・・、なんて優しい顔なの。いつまでも、あなたが好き・・」
輝明は横に座る亜紀の肩を、静かに抱き寄せる。時の経過を感じることなく、ふたりの体は動くことを忘れてしまった。
知らせたを聞いた全員が揃う。死後措置が始まるまで、母の体にしがみつく奈美。貴志が妹を必死に説得した。
措置が済むまでロビーで待たされた。マルコスが亜紀を手伝い、自販機の熱い飲み物を買ってみんなに配る。
輝明は貴志を呼び、兄と相談して葬儀社を手配した。葬儀は貴志の考えで、簡素なセレモニー・ホールの家族葬を選んだ。