忘れ水 幾星霜 第七章 Ⅵ
祭壇の上から優しい笑顔に愁いを帯びた瞳。輝明にとって、決して忘れない愛する千香の顔である。亜紀には、心を許せた最愛の友であり、彼を結び付けた恩人でもあった。
「不思議ね、私が、千香の家族として見送るなんて・・」
「うん、不思議なことだね。これも偶然かな?」
「そうね、千香が笑っている。そうよ、偶然なのよって・・」
形なりの葬儀が終わり、バスと車で寺尾の斎場へ向かう。千香の白い棺が、霊柩車から降ろされ炉に納まる。重い扉がドスンと音を立て、双方の未練を断ち切り固く閉まった。その音は見送り人の心を大きく揺さぶり、抑え切れない声を叫ばせた。
「ママ~」
「母さ~ん」
「チア、チア~」
輝明と千香は必死に堪え、心の内で叫ぶ。
《千香、千香ちゃん!》
炉のスイッチがオンされ、ゴーッと無情の音が耳に響き渡る。
「母さん、母さん・・」
「ママ、嫌、嫌よ~」
輝明は拳を握りしめ、天を仰ぐ。亜紀は体を震わせながら、輝明の背に顔を寄せた。マルコスが、顔をくしゃくしゃにして貴志と奈美の肩を抱く。耐えられない輝明は、亜紀の手を握り表に逃げ出した。外の冷たい空気を吸い込み、そばだつ煙突を見上げる。新しい煙が北風に煽られ、四方へと自由に流れて行く。
「亜紀さん、見てご覧よ。千香ちゃんの煙が自由気ままに飛び回っている。いつでもブラジルへ行けると、喜んでいるかもしれないね」
「千香のことは悲しいけど、そのように思えば辛さが和むわ。千香、いつでも待っているからね」
いつの間にか、貴志とマルコスが奈美を連れて、煙突の煙を一緒に眺めた。
「輝叔父さんの発想って、ユニークね。ママは、いつも喜んでいたもの」
「じゃぁ、これからは奈美ちゃんに喜んでもらうかな?」
「ダメよ。輝叔父さんは、亜紀さんにすればいいの。私は輝叔父さんに似た男性を探すから、必要ないわ」
「それは、残念だ」
千香の遺骨は、神戸の橋本家の墓に納骨するまで、輝明の家に預かる。二日後、心の整理がついた貴志と奈美は、マルコスを連れて東京に戻った。
「貴志さん、奈美さん、マルコスをお願いね!」
「マルコスは、私の弟だから心配しないで・・」
「ええ、母さんは、ブラジルに大好きな子がいるって、常に言ってました。だから、マルコスは僕らの弟です」
「うん、マルシア! 兄さんと姉さんができた。とても幸せだよ」
亜紀は涙を潤ませ、マルコスを抱きしめる。そして、貴志と奈美にもハグをした。