忘れ水 幾星霜 第七章 Ⅶ
翌日、輝明と亜紀は伊香保温泉に出掛ける。その途中、水澤観音を参詣してから、忘れ水が流れる場所を訪れたいと、亜紀が希望した。以前には無かった裏手の駐車場に車を停め、登山口に向かう。
「あら、随分変わってしまったのね」
現在は、登山口から頂上まで整備されている。
「そうさ、若くないボクにも無理なく登れる。度々訪れても、苦にはならなかったよ」
「そうなの? そんなに来ていたんだ輝君は・・」
輝明は流れを確認するたびに、亜紀への思いが募る。亜紀を探しにブラジルまで行ったが、願いは叶わなかった。それでも忘れ水が枯れない限り、亜紀は必ず生きていると信じ続けたのである。
「この時期は、道がぬかって危険だから、あの場所までだね」
「ええ、分かっているわ」
幾度となく訪れた場所へ、亜紀を導く。今回は迷うことなく、彼女の手をしっかり握り締めて登る。その場所に辿り着くと、輝明は後ろから彼女を支える。
亜紀は雪を払い、思い出の忘れ水を目の当たりにする。雪解けの激しい流れの忘れ水に、躊躇することなく指を浸す。亜紀は濡れた指を自らの唇に触れ、そして、その指を後ろで支える輝明の唇に触れさせた。
輝明の脳裏が瞬時に、三十年前の思いを蘇えらせる。彼は、亜紀の白いうなじに唇を寄せ、強く抱き締めることができた。
「あ~、あの頃に戻りたい。あ~、輝君・・。でも、これがあなたと私の運命なのね。諦めるしかない・・」
「うん、辛い過去だった。それでも、こうしてボクの忘れ水が、あなたに認められた。これが運命なら本望です」
「ええ、確かに・・、そうね」
ふたりは体の体制を戻し、向き合って抱き合う。ふたりの瞳は絡み合い、激しく口づけを交わした。
山を下り、駐車場の車に戻った。冷えた体を温めるため、家から用意した熱い紅茶をカップに注ぎ、前方の景色を楽しみながら飲んだ。
「でもね、千香ちゃんが僕には見えない忘れ水があると、手紙に書いて寄越したことがある。だから、千香ちゃんの忘れ水を懸命に探した。残念だが、見つからなかった」
「え~、本当に? そんな手紙をあなたに送っていたの」
「うん、亜紀さんが見つかったことを、知らせてきた手紙にね。それも、ボクに書いた最初で最後の手紙だった」
「それで、見つかったの?」
「いや・・、でもね、千香ちゃんの忘れ水は、地表から奥深くに流れている。だから、千香ちゃんの心に流れている忘れ水だと気付いた」
「そうよ、千香は彼女らしい愛情を感じさせたわ。あなたに・・」
「ボクも、そう思います。さて、千香ちゃんが最も楽しみにしていた、伊香保温泉に行きましょうか?」