「よし、出発進行!」 「よし、輝坊ちゃんと最後の旅だ~!」 「・・・」 千香の言葉が胸に響く。ハンドルを掴む彼の手に力が入った。返す言葉がない。 「輝坊ちゃん、運転は大丈夫なの?」 「うん、平気だよ。事故ったら、最・・、千香ちゃんとの楽しい旅が、台無しだ。ゆっくり安全運転しなきゃね」 新名神高速道から伊勢湾岸道を抜け、新東名高速道で東京に向かう。予想よりスムーズに流れ、心配するほどでもなかっ…
「いや、まだ決まっていない。佐和さんに休暇許可を出してから、北島さんに連絡するらしい」 「そう、楽しみだわ。それまでは、頑張るね・・」 「千香ちゃん、無理しないでよ。何かあったら、困るからね」 「心配しないで、分かっているわよ」 いつもの千香らしく、頬を膨らませて拗ねる。その様子に輝明は安心した。 翌日は、寒さがほどほどに和らぐ冬晴れの日。千香にとって心優しい日になった。高崎までの長い道中、…
食卓テーブルの冷めたおかずを、レンジで温めなおす。勝手に騒いでいるテレビ画面を横に置いて、侘しい食事を終わらせる。輝明が時間を確認すると、十時を過ぎていた。 《ブラジルは、朝の十時か・・。今、亜紀さんは休憩時間だよな。早く来れるか話してみよう》 「あ、輝君。何か急用なの?」 「うん、千香ちゃんのことで・・」 「えっ、千香が・・、どうしたの?」 「いや、特に差し迫る状態ではないけど、思ったより進…
《何十年と見続けた千香ちゃんの顔だ。この顔が見られなくなる。考えるだけでも虚しいなぁ・・》 冬の陽は沈むのが早い。病室の中が薄暗くなったが、輝明は気にもせずに独り戯言を呟いていた。 「歳を重ねるごとに、親しい人たちとの死別が多くなる。あ~ぁ、つくづく考えてしまうなぁ。むしろ先に逝く方が、悲哀や虚無感をこれほど味わなくて済むかもなぁ~。こんなことを話したら、千香ちゃんはすごい剣幕で怒るだろう。・…
「ある知人は、死の直前に自分の人生を達観して、癌専門病院ホスピス棟を最期の住まいに選びました」 「・・・」 「その庭に咲く桜を、来年は見られないとカンパスに描き。生きている間は縁の薄かった観音菩薩像を、痩せ衰える手で懸命に彫っていました。葬儀には未完成の像が飾られていたが、カンパスに描かれた桜は見事に咲いていましたね」 輝明は、その知人を思い出すたびに、最期の自分を思い描いていた。ただ、亜紀と…
「いいや、できれば兄貴に教えてもらえれば・・」 「F病院の院長なら、面識があるよ。最近、緩和ケアを始めたらしい・・」 翌日の朝、佐兄が院長に電話してアポの了承を得ることができた。輝明は指定された午後の時間に、病院を訪れる。入院病棟のロビーで待っていると、女性事務員に面談室に案内された。しばらくすると、院長と年配の看護師が面談室に現れた。 輝明は席を立ち、挨拶する。 「金井と申します。お忙しい…
ブラジルから戻りひと月が過ぎた日。痛みもなく穏やかに会話ができる千香が、深刻な面持ちで輝明に相談した。 「輝坊ちゃん、私ね・・、できれば高崎に戻りたいの。だって、死ぬのなら・・、思い出のある高崎を選びたい。どうかしら?」 千香から聞いた死の言葉は、今までに何千回も聞いた。それは、彼女の遊び言葉として理解し、輝明はいつも茶化し素通りさせている。千香も承知で、彼に対しては平常心で使う。しかし、今…
《輝君が見せたあの瞳、私の幸せを願う思いが込められていた。出会いの三ヶ月、別々に過ごした三十年、再び巡り合えた三日間。私たちの運命は、神の偶然に弄ばれた人生なのかしら・・》 「行っちゃうね、分かれることがこんなに辛いなんて、初めて経験したよ。悲しいね、マルシア」 マルコスの言葉が、彼女を現実に引き戻す。 「うん、うん、そうね。でもねマルコス、私は二回目よ」 《そう、あの最初の別れは、心が張り裂…
搭乗手続きのアナウンスが流れた。千香が、秋の側に寄り添い小声で話す。 「亜紀、お別れね・・。会えて良かった。必ず、必ず来てね」 「うん、自分がこんなにも幸せとは・・。あなたのお陰よ。ありがとう。千香、必ず行くわ」 どちらともなく、ふたりは強く抱き合った。千香と亜紀が離れるのを待って、輝明は亜紀に近寄る。小刻みに震える亜紀の体を引き寄せた。さらに強く抱きしめ、別れ際に軽く唇を寄せる。 「さよな…
突然に空が暗くなり、スコールに見舞われる。道路があっという間に冠水状態。セルジオが注意しながら、ゆっくりと車を走らせる。 「凄い雨ね。後ろのマルコス、大丈夫かしら・・」 「驚かれたでしょう、直ぐに止みますよ。ああ、彼はしっかり走っていますね」 「いいえ、驚かないわ。確か、熱帯特有のスコールでしょう? 主人と一緒にタイで経験したことがあるから」 「千香、ブラジルの人は雨期の長雨以外は、傘を持たな…