別れ水 幾星霜 エピローグ 完
輝明は、渋々と頷くほかなかった。
「前と違って、今は電話で話せるからね。平気でしょう? あなたの声を聞きたいから、ちょくちょく電話をしてね」
「うん、分かったよ。毎日、毎晩電話する。寂しくなったら、ブラジルへ行くさ」
「まあ、それはやり過ぎよ。いい加減にして・・。うっふふ・・」
「そうか、電話代で破産しちゃうよな・・」
亜紀はレストラン内を見渡してから、輝明の横に座りサッと唇を交わす。輝明は一瞬の出来事に、驚き喜んだ。
「凄い、亜紀さんって行動力があるんだね。あ~、嬉しいなぁ~」
「何言ってんの、私はブラジル人よ。人前でのキスなんて、恥ずかしくないもの」
《私も驚いたわ。でも、良かった。心配していたことを、最後に伝えられたから・・》
マルコスが素知らぬ顔で戻ってきた。レストランを出て、出国ロビーへ行く。輝明は亜紀の手を握って離さない。もう一方の手を息子の肩に置く。歩きながら、マルコスが意外なことを言い出した。
「パパィ!」
「どうした? マルコス」
「うん、貴志兄さんが留学を勧めてくれたけど、来てもいいかな?」
「そりゃあ、いいことだ。それは、千香ちゃんが考えていたことだよ。北島さんに相談していたから・・」
「チアが?」
その話に、一番喜んだのは亜紀だった。
「私も、応援する。帰ったら、北島さんに話してみるわ。そうなれば、会いに来れるものね」
「えっ、ボクに会いに来る?」
「いいえ、マルコスによ。ねぇ~、マルコス」
「うっそ~、肝心なのはボクでしょう」
「会うのは、マルコス。あなたは序でよ。ふふふ・・」
三人は歩きながら笑ってしまった。エミール航空の搭乗呼び出しがアナウンスされる。瞬間、三人に緊張が走り、笑いから硬い表情に変わる。亜紀が先に彼の手を固く握りしめた。輝明は握り返す。
ふたりは言葉を忘れた。ただ、ふたりの瞳が絡み合うだけだった。ゲート前で、亜紀とマルコスをもう一度抱きしめる。輝明の方から、軽く唇を合わせた。亜紀は惜しむように手を離すが、熱い視線はゲートの陰まで離さなかった。
輝明は手の温もりを愛しみ、コートのポケットに仕舞い込む。
《千香ちゃん! 亜紀さんはブラジルに帰ったよ。でもね、横浜の見送りと違う。だって、悲しく心残りな別れではなかった。亜紀さんの愛をポケットに仕舞ってあるから》
輝明は、二階の送迎デッキへ行く。滑走路から飛び立つ旅客機が、暗闇の中に消えるまで見詰めた。亜紀との忘れ水が幾星霜も流れ続けるであろうと、彼は確信したのである。