忘れ水 幾星霜 第五章 Ⅶ
「いいや、できれば兄貴に教えてもらえれば・・」
「F病院の院長なら、面識があるよ。最近、緩和ケアを始めたらしい・・」
翌日の朝、佐兄が院長に電話してアポの了承を得ることができた。輝明は指定された午後の時間に、病院を訪れる。入院病棟のロビーで待っていると、女性事務員に面談室に案内された。しばらくすると、院長と年配の看護師が面談室に現れた。
輝明は席を立ち、挨拶する。
「金井と申します。お忙しい中、ご無理なお願いで申し訳ありません」
「院長の新川です」
「緩和ケアを担当している、看護主任の佐々木です」
「お兄さんから、概ねの内容は伺っております。相手の病院から紹介状を頂ければ、当病院でも問題なく受け入れられます。ご安心ください」
「そうですか、ありがとうございます」
「詳しいことは、看護主任と打ち合わせしてください。では、私は失礼します」
次の予定がある院長は席を外し、面談室から出て行った。輝明は立ち上がり、頭を下げ黙礼をする。エアコンの温風音が輝明の耳に聞こえた。彼は改めて席に座り、目の前の看護主任と目を合わせる。
「金井さん、緩和ケアについてご存知ですか?」
「末期癌患者のサポートのみで、残念ながら詳しいことは理解していません」
「多くの方が、緩和ケアを終末期医療と考えています。本来は、癌と診断された時から、ケアの必要性が生じるのです」
佐々木主任は、目の前のパンフレットを示しながら、輝明に詳しく説明する。癌と診断された多くの患者は、痛みや治療の不快感などに不安を持ち悩む。中には、将来の非観から精神的に侵され、自暴自棄な行状を引き起こす患者もいる。それによって、家族の負担が大きく係わり、生活環境に悪影響を及ぼす結果となるという。
「確かに、そうですね。私にも気立てのよい友人がいました。末期になると、自営の仕事を放棄し朝から酒浸りの毎日でした。奥さんに頼まれ、私が注意しても聞く耳を持たず。逆に、お前に何が分かるか、痛みや死の恐怖、家族との別れが理解できるかと叱責された。
私には、答えられませんでしたよ。あれほど、家族を愛し別れの辛さを嘆いていた彼は、激しい痛みが起こると別人になり家族を怯えさせる。家庭から笑顔が消えた」
「ええ、そうでしょうね。それが現実です」
「葬儀のとき、奥さんから悲しみよりもホッとしたと言われ、複雑な思いでした」
「その奥様の気持ちは、理解できます。ホッとする気持ちが、どれほど辛い本心なのか当事者だけしか分からないでしょうね。患者様と家族の切実な問題です」
過ぎ去った友人を思う輝明の脳裏に、千香の表情が掠める。彼の心を委縮させた。
「ですから、緩和ケアは患者様の治療を施すだけでなく、家族と共に平常な生活が過ごせることを最優先と考え、患者様と家族の緩和環境を支援することです」
輝明の認識が、昔からの知識であると痛切に感じた。