青き残月(老少不定) Ⅰ
鮮やかな青葉に囲まれた校庭は、透き通る陽の光に照らされている。本校舎から東校舎への渡り廊下を歩きながら、私はその風景を眺めた。
東校舎に入ると、冷ややかな空気がそっと顔を撫でた。突き当りの第二理科室から、生徒たちのささめきが聞こえる。静かに階段を上がる。三階の踊り場の窓。そこから眺める景色が、私は好きであった。
青々とした麦畑、その向こうに葉桜の古木に囲まれた小さな墳墓の丘。五月の清々しい風に誘われ、雲塊から千切れて当てどなく流れる綿雲。
ぼんやりと眺めている私に、不可解な声が背中を押した。
「ジーッ、ジーッ、ジーッ」
「えっ?」
私が振り向く。
「ジーッ、ジーッ、うん。その髭、変だな」
「えっ、オイ、何、君は」
私は驚き、狼狽えた。ひとりの男子生徒が、いつの間にか後ろに立っていた。名札には【松原浩輝】と書かれ、眉毛が太く愛嬌のある生徒に思えた。
「ジーッ、ジーッ」
低い声を喉の奥から押し出し、瞬きもせずに私の髭を見続けている。
「松原君、松原君。その『ジーッ』は、なんの意味なんだい」
「ボ、ボクは松原君じゃない! ひろちゃんだよ」
しゃがれた声で怒った。だが、にこやかな顔になって答えた。
「それはジーッと見ているから、ジーッ、ジーッだよ」
「そうか・・、還暦のジイさんを呼ぶ声かと思った。面白い観察の仕方だね。ワッハハハ・・」
私は大声で笑ってしまった。
「で、でも・・。先生の髭、嫌いじゃないよ」
その時、三校時終了のチャイムが鳴った。
「そうだ、次は理科の実験だ。準備のお手伝いをしなきゃ。早く行かないと・・」
嬉しそうな顔を見せ、慌てた様子で一階の理科室へ降りて行った。
「ユニークな子だな。何組の生徒だろうか?」
彼の顔を思い出しながら、三階へ上がった。廊下の生徒たちが『おはようございます』と、元気な声で挨拶をする。
三階には一学年五クラスの教室のほか、東側奥に吹奏楽部の練習室。手前に、新たに開設された特別支援学級【ゆうあい教室】がある。
何気なく教室の中を覗いたが、誰もいない。幾つかある生徒机の一つに、真新しい生徒カバンが横のフックに掛けられていた。
《確か、このクラスには三人が入学したはず・・。今日は一人なのか・・》
後ろに人の気配を感じた。
「おはようございます」
ゆうあい教室担当の佐野先生が挨拶してきた。そして、後ろの女性を紹介した。
「宮崎先生、今日から、このゆうあいを支援する小池先生です」
「初めまして、生徒指導嘱託の宮崎です。よろしく・・」
「覗いていないで、中にお入りください」
「あっ、いやいや他を見回りますので・・」
私は右手を小さく横に振りながら、その場を立ち去った。