忘れ水 幾星霜 第三章 ⅩⅦ
そこへ、千香のために車椅子を押すマルコスが顔を出した。千香はマルコスの顔を見ると、満面に笑みを浮かべる。
亜紀と佐和が、施設内をゆっくり案内する。庭を見渡せる廊下へ差し掛かると、千香が車椅子から乗り出すように前方を見た。
「マルコスさん、ちょっと止めて! 綺麗なアジサイが咲いているわ。亜紀! あなたの好きな花でしょう?」
亜紀は千香の近くに寄り添い、千香の目線に合わせて、その場にしゃがむ。
「そうよ。覚えているかしら、清水寺の参道を・・」
「もちろん覚えているわ。あれ? あそこで、花を触っている人は、誰なの?」
「ああ、本当の名前は誰も知らない。でも、園の人たちはタロウさんと呼んでいる。彼が、お母さんと故郷を思い出して、あのアジサイを植えたの」
「ふ~ん、なんだか輝坊ちゃんの仕草に似ている感じね」
《やはり、千香も感じるんだ》
タロウさんは、ふたりの視線を受けて軽く会釈すると、小屋の中に隠れてしまった。その後、食堂に用意された昼食を試食する。
「ふぅ~、そうなんだ。亜紀、分かったわ。あなたの生き生きした姿は、この施設があったからなのね」
「そうかもしれない」
「ええ、そうよ。私だって、いつまでもいたいと思うもの」
その言葉を聞いた佐和が、嬉しそうに話しかけた。
「ありがとう、千香さん。あなたの言葉は、私たちの励みになるわ」
「佐和さん、本当のことよ。輝坊ちゃん、あれ渡してね」
「そう、そう、まだお礼も言ってなかった。今回は、援護協会に依頼されるなど大変お世話になりました。僅かな気持ち程度で申し訳ないですが、憩いの園でお使い頂ければ幸いです」
「いえ、こちらこそ感謝します。園長もお喜びになるでしょう。神のご加護を・・」
しばらくして、早めにホテルへ戻る。帰り際に、輝明が亜紀に小声で伝えた。
「亜紀さん、仕事が終わりましたら、ホテルに来られますか?」
「ええ、佐和さんから許可をもらっているので、早めに行けると思います」
千香が名残惜しみ、マルコスの手を放さない。輝明は苦笑いをしながら説得する。ようやく諦め、憩いの園を発つことができた。
その日の夕刻に少し早い時間。大学へ行くマルコスに送られ、ホテルに着いた亜紀がロビーへ行く。そこには、真剣な眼差しの輝明がひとりで待っていた。
亜紀は、その眼差しから彼の複雑な心の機微を、否応なしに感じ取ることができた。