忘れ水 幾星霜 第四章 Ⅰ
恐る恐る輝明に近づく。
「千香は?」
「うん、部屋で少し休ませている。・・・、亜紀さん、夕食まで余裕があるので、ふたりだけで話しをしたい・・」
《この胸騒ぎは、なんだろう・・か》
亜紀は頷き、輝明が示すソファに座る。
「明後日の晩に、日本へ帰る予定です」
「えっ、明後日?」
《なんだ。もっと深刻な話かと思ったわ。バカな私ね》
「はい、北島さんに航空会社へ連絡して予約をお願いしました」
「そうですか・・」
《それには、早くオレの気持ちを伝えなければ・・、でも受け入れてもらえるだろうか》
「それで、これからプラサ・ダ・セ(中央広場)のサン・パウロ中央大寺院へ行きませんか?」
「今からですか?」
「はい、できれば・・。以前に来たときは、外観だけでした。是非、今回は中を見学したいと思っています」
「いいわ。歩いて十五分ほどですもの。行きましょうか」
「良かった。ありがとう」
ふたりは、ホテルを出ると腕を組み、東洋街を通り過ぎ中央広場へと歩く。商店のショー・ウインドーに珍しいものを発見すると、立ち止まって眺めた。
広場に近づくと、中央大寺院の大きな釣り鐘が突然に鳴り渡った。周囲の高層ビルに当たり木霊となる。亜紀が輝明の腕にしがみつくほど、大きくリズミカルに響く。その鐘の音は、ふたりの心を大きく揺さぶった。
「凄い、凄いわ。近くで聴くの、私は初めてよ」
「確かに凄い。大きな音だが、決してうるさく感じないね」
《高尚な音が心に染み入る。千香ちゃんに聴かせれば喜んだろうなぁ》
大寺院は圧倒される高さ。ドームは緑青に覆われ、正面は豪壮な二重扉になっていた。
ふたりは石段を上がり、薄く開いている重厚な扉から中に入る。亜紀が軽く膝を折り、胸元で十字を切りながらブラジル語で呟く。
《亜紀さんは慣れているな。一応、礼儀としてオレも十字を切った方が、いいのかなぁ》
輝明も覚束ない手つきで、十字を切る。
「亜紀さんは、クリスチャンですか?」
「いいえ、洗礼は受けていません。ただ、憩いの園の礼拝堂でミサがあるときは、必ず出席しているわ」
《礼拝堂は、ミサだけじゃない。輝君を思い出し、自分を慰めていた場所よ》
「そうですか、ボクは昔から教会に憧れが・・」