忘れ水 幾星霜 第三章 Ⅸ
亜紀は千香の右手を両手で包む。千香の指が手の中で反応する。
「亜紀・・。私ね・・、いつまで生きられるか、分からない。医師に一年と言われたけど、私の体がもっと短い・・と感じているの。だから、どうしてもあなたに会いたくて、来ちゃったわ。それに、輝坊ちゃんが心配で・・」
亜紀の両手は、千香の弱々しく愛しい手をしっかり抱え、彼女の心肝にある不安を受け止めた。
「輝君のご家族は・・」
心もとない声で聞く亜紀に、千香は目を大きく見開き彼女の顔を直視する。そして、切なく微笑み返した。
「亜紀、何を言うの?」
「えっ、普通なら幸せな結婚をして・・、いるはず、でしょう?」
「あなたなら、輝坊ちゃんの考え方を理解できるはず。確かに、一度は裏切られ失望を感じたと思う。横浜港の埠頭を覚えている? 彼の心は、あの時点で真実の心を探すことができたの。あなたに対してのね。だから、亜紀を決して忘れることができなかった」
《私だって、忘れなかったもの》
「私や佐兄ちゃんが、結婚相手を紹介したけど続かなかったわ」
千香は起き上がり、居間のソファへ行く。亜紀は急いで彼女の腕を携え移動させた。
「それからね、ブラジルに来た真の目的は・・。亜紀を日本に連れて帰ることなの」
千香の言葉は、あまりにも衝撃的であった。亜紀は、千香の顔から目が離せない。
《え、え? 私には理解できない。無理、無理よ》
「ま、まさか・・」
「いいえ、本当よ。見送りの横浜港で、彼が必死に叫んでいた声。聞こえた?」
「忘れもしないわ。ただ、輝君が叫んでいるのは感じたけど、意味が聞こえなかった。ずっと、考えていた」
「意味はね、必ず迎えに行くから、と叫んでいたわ」
「・・・」
「彼は、それを実行したわ。ブラジルに来ているの。それも二度よ」
一方的に忘れられた存在と思い込んでいた彼女は、暗く閉ざされた心に明るい光が輝く思いであった。
「うそ! それ本当なの。いつ?」
「これは内緒なの。輝君は誰にも打ち明けていない。佐兄ちゃんが、こっそり教えてくれなければ、私も知らなかったことよ」
《過去を捨てきれず、ただ思いを募らせていただけ。私は何も行動を起こしていない。未練がましい絵葉書を送っただけよ。整理箱から【忘れ水】の詩を取り出して読み、心の隅に残る淡い希望を確かめるだけ・・》
「信じられない・・」
「ええ、信じられないでしょうね。あなたを日本へ連れて帰ることも、輝君が考えたことよ」