雨宿り 完
【最後の手紙を美佐江さんに捧げる。
私は、これからお国のために戦地へ行きます。決して戻れるとは思っていません。
あの雨の夜に、初めて貴女にお会いできたことは、偶然ではなく運命であると信じて います。この世に生まれ、初めて経験する異性への思慕。これほど素晴らしい感情を、私に芽生えさせたのは貴女でした。
雨の晩は、貴女に会える喜びに我を忘れ、逸る心を抑え民家の軒先で待ちました。いつしか、雨の日を心待ちする自分に思いあぐむほど、貴女を恋しく感じるようになった。
ですが、晴天の日にあの民家を訪れ、意外な真実を知り愕然としました。民家は朽ち果て、誰も住んでいる気配はない。私は不思議に思い調べると、数年前まで、病に侵された若い女性が独り住んでいたが、療養の快癒もなく亡くなったという。
その女性の名前が、柏原 美佐江さん。そうです、貴女でした。
貴女が亡くなり、婚約者より贈られた大事な錦鯉が、誰からも世話をされずに放置されてしまった。私の記憶では、この家の近くに転居して間もなく、池の錦鯉を食用にする子供らの悪巧みを聞き、私が先に捕獲し近くの川へ逃したことがあった。
貴女の和服は、その錦鯉の色彩と全く同じことに気付きました。そして、貴女が錦鯉の化身であることも理解した。私には貴女を恐れる理由などありません。何故なら、私の短い人生が終わろうとしている。その短い人生に、恋の一文字を貴女が与えてくれたからです。
来世で本当の美佐江さんに会えることを望んでいる。この手紙を読み、心を安らかに今世の私を忘れて下さい。願っています。 大河内 新之丞より】
私はソファにドサッと体を投げ落とし、しばらく宙を見詰めた。手紙の内容が頭の中をグルグルと目まぐるしく回る。
《薄々感じていたが、やはりそうだったか。新之丞の手紙を渡そう。夢を・・、いや夢ではない。恐ろしい現実を早く終わらせるべきだ》
雨の夜、多少の怯えを感じるが、私は待つことにした。だが、なかなか現れない。ソファでうつらうつらしていると、一陣の風がレースのカーテンを押し広げた。私はパッと目を開ける。和服姿の美佐江が目の前に立っていた。目が血走り、想像以上に険悪な印象を受けた。
《参ったな、前回の対応を甘く考えていた》
私は用意していた手紙を、美佐江の前に差し出した。
「お~、これが新之丞の手紙か~ぁ。ようやく私の物になった」
美佐江の顔が徐々に元の素敵な顔へと変わり始めた。穏やかな満面に笑みを浮かべる。
《良かった。美しい美佐江さんに戻ってくれた》
「嬉しいわ。ありがとう!」
「いいえ、あなたの手紙ですから。私の祖父も預かったまま、苦しんでいました。これでホッとするでしょう」
「お願いがあるの。この手紙を読んでいただけるかしら?」
私は、一瞬戸惑った。新之丞の言葉をどう受け止めるのか、心配したのである。
「さあ、お願いね」
「うん、分かった。でも、がっかりしないで欲しい」
私は、一語一句ゆっくりと読んで聞かせた。穏やかになった顔が再び険しく変わる。だが、悲しみと苦悩に顔を歪めた。読み終えた手紙を渡すと、彼女は素直に受け取る。そして、その手紙を胸にしっかり抱き、涙を流し始めた。彼女の流す涙が、美佐江の姿を霞めさせ透き通ってゆく。消え去る瞬間、美しく優しい微笑みを見せた気がする。
翌日、高崎の祖父に終わったことを、電話で知らせた。その後、二度と美佐江の姿を見ることはなかった。ただ、私の記憶の中には、軒先に雨宿りする美しい美佐江の和服姿が残っている。