続 忘れ水 幾星霜 (別れの枯渇)Ⅳ
三ヶ月後の五月、亜紀は独りで水沢山を訪れた。整備された小道を登る。頂上に立ち、一望の景色を眺めた。季節は異なるが、眺める風景は変わっていなかった。彼女の長い髪の一本一本を、爽やかな風が愛でるように触れて行く。
その風の感触は、輝明が優しく撫でる感覚に似ている。
「あ~、輝君・・」
亜紀は、彼の名前を呼んだ。
『ん? どうしたの?』
「だって、輝君が触ると、恋しくなるもの・・」
『亜紀さんの長い髪は素敵だから、いつまでも触れていたいんだ』
風に煽られた髪先が、亜紀の唇に甘く吸い付く。その甘さに、彼女は寂寞とした思いにかられた。
頂上からの帰り道、輝明と共に触れた忘れ水を探す。背後から抱きしめられ、うなじに唇を合わせられた場所。そう、亜紀が決して忘れない場所。懸命に確かめたが、一筋も流れてはいなかった。
亜紀は幾度も振り返り、思い出の忘れ水に惜別の情を残した。小道を下りる間、再び訪れることのない寂寥感に苛まれる。
《輝君、この場所に戻ることは・・、決してないのね。》
翌日、亜紀は未練の無い日本を発つ。見送りに来た輝明の兄から、別れ際に小箱を渡される。亜紀は封を開けずに持ち帰った。
帰国後、憩いの園の礼拝堂を訪れ、誰もいない礼拝堂の中で小箱の封を開ける。一枚の白い便箋に、輝明の兄が書いた手紙。それに和紙に包まれた指輪があった。
【拝啓
輝明は幸せでした。帰国後、千香ちゃんを失くしたことは、非常に無念だったと思います。でも、亜紀さんの存在が、彼の心を癒してくれたはず。彼は、忘れ水の詩に、言葉を追加しました。(心の忘れ水 愛ある限り 別れの枯渇はない)
指輪は、輝明が大切にしていたものです。どうか、受け取って下さい】
亜紀は包まれた指輪を、左の手のひらに乗せる。徐に右手の人差し指で、優しく労る気持ちで触り続けた。
《そうね、輝君の言うとおりよ。私があなたを愛する限り、忘れ水は枯れないわ。ずっと、心の中に流れ続けるもの》
亜紀は、夕日に照らされた礼拝堂のマリア像を見詰める。
「マリア様、輝君を愛し続けることを、この場で誓います」