忘れ水 幾星霜 第二章 Ⅹ
「佐和さん、私にはふたりに正面から会うことができない。ふたりを裏切ってしまったから・・」
佐和は、テーブル越しに亜紀の両手を握りしめる。
「そんなことはない! あなたを探して、ブラジルまで来るつもりなのよ。必ず理由があるはず。逃げるなんて、だめ! しっかり会うことよ」
握り締められた亜紀の手に、佐和の強い信念が伝わる。
「ありがとう、佐和さん」
「・・・」
「でもね、ふたりは出航の日に横浜港へ、見送りにやって来たの。そのときは、信じられなかった。だって、私のことを失望し、私は嫌われたと思っていたから・・。瞬間に、とても嬉しく、幸せを感じたわ」
「・・・」
「だから、船が岸壁を離れ、ふたりの姿が小さくなるにつれ、私の心が引き裂かれる思いだった。別れるのが悲しく、日本に残りたいと強く願ったわ。今でも、遠くの埠頭で叫ぶ輝君の声が、記憶の中に響いているの。でも、残念なことに意味が聞き取れなかった」
ありったけの思いを話す亜紀、ただ静かに聞く佐和。
「辛い経験をしたのね。それで、今でも好きなんでしょう」
佐和の質問に、亜紀は一瞬身を引き、答えに迷った。
「さあ、どうでしょうか。好きという感情はどこかに置き忘れたわ。それに・・、輝君だって私のことを忘れ、他の女性と結婚して幸せに暮らしているでしょうから・・」
彼女は、自分の答えが本心ではないと感じながら、グラスの冷えた感触を無意識に確かめていた。その機微な動きを見ていた佐和が、代わりに本当の答えを告げる。
「それは嘘でしょうね。心の隅に未練が残っている。タロウさんの仕草や亜紀さんの意外な動揺は、何も置き忘れていない証拠じゃないかしら。まだ好きなんでしょう?」
グラスに付いた雫を親指で拭きながら、亜紀はコクリと頷いたのである。
休憩時間が終わり、佐和は事務所へ行く。亜紀もテーブルのグラスやクッキーを片付けて、担当の入所者の部屋に向かった。
その二日後、北島から連絡が来た。
「横山さん!」
「北島さん、私のことを亜紀と呼んでいいわよ。横山より耳慣れた亜紀の方が、気が楽でいいわ」
「そうですか? では、亜紀さん!」
「はい、何か連絡が有りましたか?」
「ええ、来週の火曜日の便で来られるそうです」
「えっ、そんなに早く?」
《あら、一週間も無いわ。どうすればいいの。滞在する予定は?》
「ホテルは、私が利用しているニッケイに決めました。何かと便利ですからね。当日の朝七時に、空港でお会いしましょう」
「ま、待って! 滞在予定は?」
「はい、一週間の予定です。詳細は、到着してから決めるそうです」