浸潤の香気(大河内晋介シリーズ Ⅲ)Ⅷ
帰路の車中で、用心を怠らないよう若月に話して聞かせた。
「若月よ。恐らく、この一週間に大変な体験をすると思う」
「な、な、なんですか? 大変な体験って?」
「うん、権助やその仲間の邪鬼が襲うかもしれん」
彼はマジに恐怖を感じたらしい。
「え~、本当に襲ってきますかぁ~?」
「ああ、必ず襲ってくる。だから、匂い袋は肌身離さずに持て! それに、般若心経を覚えて、とっさに唱える準備を・・」
「全部ですか? こりゃ、大変だ」
「全部がダメなら、最初と肝心な部分だけでもいいよ。カンジザイボサツ、ギョウジン、ハンニャハラ、ミッタジ・・。それと、ソクセツシュワツ、ギャテイギャテイハラギャテイ、ハラソウギャテイ、ボウジ、ソワカ、ハンニャシンギョウ」
「わぁ~、難しそう。でも、頑張って覚えます」
「そう、自分のためだ。あの耳なし芳一も、般若心経に亡霊から守ってもらったんだ」
月曜日の朝、出社すると青白い顔でげっそりした若月がいた。
「おはよう。ん! どうした、具合が悪いのか?」
「あ~ぁ、主任。どうも・・、実は・・」
昨晩に起きたことを話し始めた。彼は、ベッドに入ったが、奇妙な感覚で体が落ち着かない。仕方なく、暗い部屋で考えることも無く天井を見上げていたら、地の底から沸くような声が、耳元に聞こえてきたという。ベッドから急ぎ起き上がり、昼間にパソコンからダウンロードした般若心経を懸命に唱え続けた。
「それで、朝まで寝つけなかった。もう、寝不足ですよ」
「そうか、金曜日まで続くと思うよ。でもな、こちらの弱みを見せたら負けだ」
「これじゃぁ、体が持ちません」
「心配するな、狙っているのは君じゃない。ただ脅しているだけだ。狙いは、私だから・・」
《やはり、動いて来たな。こちらも準備しなければ》
不思議なことに、その夜は何も起こらなかった。翌日の水曜日も、静かな夜であった。若月に対しても、恐れる動きが感じられなかったという。彼は怪訝な顔をした。
「主任、どうしたんでしょうか?」
「うん、こちらの様子を窺っているのかもしれん。若月、金曜日まで私の家に来い」
「ええ、構わないですけど。どうしてですか?」
「今晩か、明日の晩が気になる。邪鬼は、もう激怒を抑えられない。だから、ふたりでいた方が安心だ」
彼に、私の考えを教えた。
「了解しました。赤い箱を用意すればいいのですね」
「そうだ。だが、飽くまでも案に過ぎない。やつらはこの世の者ではないから、どんな手段で襲ってくるか予測できない」
その日の夜、私たちは残業してから、最終前の電車に乗って帰宅した。降りる駅に近づくにつれ、静かな車両の中がただならぬ気配に満たされた。私は前に視線を置き、隣の若月にこっそり呟く。
「用心しろ。顔を向けずに話せ」
「はい、あ・・現れたんですか? 私には見えません」
「車両の前後に、数匹の邪鬼がこちらを窺っている。でもな、前に座っている人は、心が和らぐ。多分、内室が依頼した守人だと思う」