冥府の約束 (大河内晋介シリーズⅡ) 完
《この絵図では、八重さんはお守りの赤い箱を持っていない。その箱を邪鬼同士が奪い合う隙に、川を渡っているのだ》
私が思ったことを伝えると、福沢准教授は頷く。
「そうですね。邪鬼が赤い小箱を夢中で取り合っている。これがお守りの使い方かも・・、しれませんね」
「そうでしょう? おそらく、邪鬼は赤い物を好む。だから、それを利用した」
「そうじゃ、確か・・、あの子は赤の服装を好んで着ていたようだ」
「ええ、僕も思い出しましたよ。紗理奈さんは赤いブラウスを着ているから、この箱はいらないと言って僕に寄越したんだ」
「やはり、間違いない。彼女はお守りの意味を勘違いしていた」
理解できぬまま、邪鬼に襲われる彼女の姿。私は、背筋が凍るほど寒気を感じた。
《彼女が経験した恐怖は、言語に絶する苦痛であったろう。想像するだけでも心が痛む》
しばらく無言の時間が過ぎた。
「さて、先生。そろそろ、お暇いたしましょうか?」
「そうですね。でも、岩崎さん! 一緒にホテルで食事しませんか?」
「あっ、それはいいですね。佐渡の話を聞かせてください」
その晩、岩崎翁もホテルに泊まり、酒を交わしながら話し合った。翌日、遅い朝食を済ませ、岩崎翁を家に送る。そして、佐渡島内を観光してから、午後一番のフェリーで新潟港へ戻り東京に帰った。
翌月のお盆過ぎの土曜日、私は独りで岬を訪ねた。しかし、直ぐに岬へ行かず砂浜で海を眺めていた。やはり、決心がつかず迷っていたからである。あの絵図を見て、邪鬼の怖さを思い知った。以前に見た夢の残存が、未だ記憶から消えていない。
砂浜に座り目を閉じ、潮鳴りに耳を澄ませる。全身に響く心の高鳴りを抑えようと努力した。
《ん・・、なんだ?》
潮風とは異なる風が、スーッと私の頬を軽く触れたのだ。
《ま、まさか・・、彼女?》
パッと瞼をを開け、横に目を向ける。視線を海に向けたままの紗理奈の横顔。私はその美しい横顔を見詰めた。
「フーッ」
私はため息を吐く。紗理奈が私に顔を向け、あの涼しい眼差しで微笑む。
「本当に来てくれたのね。嬉しいわ」
「はい、約束しましたから」
紗理奈は、私の手に彼女の手を重ねた。生きた温もりは無く、氷の様な冷たい感触が私の体に伝わった。
「紗理奈さん! 私は貴女のことを調べましたよ」
彼女は驚き、重ねた手を外し私の顔を覗き見た。
「えっ、何を調べたの?」
私はこの一年間のことを詳しく説明する。そして、彼女を無事に彼岸へ渡らせる事も話した。
「そう・・、でも、難しいと思うわ」
カバンから赤い小箱を二つ取り出し、驚いて目を見張る彼女に渡した。
「どうして、二つも持っているの?」
「これは貴女が福沢先生に置いて行ったもの。もう一つは、親せきの岩崎翁から預かったものです」
紗理奈は小箱を持ったまま、両手で顔を覆い泣き出した。私は小刻みに震える彼女の肩を、優しく摩り慰める。一瞬、荒々しい風が吹く。紗理奈は顔を起こし、キッと鋭い眼差しで岬のお堂を睨みつけた。私の手を掴み立ち上がる。私は抗うことなく従った。
ふたりは手を繋ぎ、白い砂浜を岬に向かって歩く。紗理奈の冷たく力強い手が、緊張で震える私の手を離さない。
《一緒に行っても大丈夫だろうか。やはり怖いなあ》
砂浜には、私だけの足跡が残っていた。
岬をゆったりと登る。岬の上は爽やかな風が吹いていた。お堂の前に立つふたり。互いに目を合わせた。ガタガタと扉が音を立てる。
「大丈夫よ。邪鬼は眩しくて外には出られないから」
「そう、それなら安心だ・・」
「大河内さん! 貴志君に伝えて・・、私の体は邪鬼に引き裂かれたけど、魂は生きているわ。本当にごめんね」
「ええ、必ず伝えます。安らかな成仏を・・」
「扉が開きますが、絶対に中を覗かないでね。奇妙な声が聞こえても、決して耳を傾けないでください。あなたが危険なの。引き込まれたら私と同じ運命よ。だから、お願い!」
「うん、分かった」
お堂の扉が静かに開く。地の底から異様な唸り声が響いてきた。紗理奈が扉の中に入ると、唸り声が激しい苛立ちの怒声に変わる。お互いの体をバリバリと引き裂く音。悲鳴と呻き声に、バリバリ、クシャクシャと何かを噛み砕く音が聞こえた。
一瞬、私は中を見てしまった。紗理奈が邪鬼から逃げ延び、懸命に川を渡っている姿が見えたので安心した。
「お前は何を見た~」
邪鬼のしゃがれ声に身の毛がよだつ。
《やばい、答えてはダメだ》
目の前の扉から、異様に生臭い血に染まった邪鬼の腕が伸びてきた。尻もちをつき、その場に動けなくなった私は、紗理奈の忠告を守らなかった自分を後悔した。邪鬼の冷たい手が両足を掴んだ。私は諦め、目を瞑る。
奇怪なことが起きた。掴まれた感触が無い。後ろからポンポンと肩を叩かれ、私は怖々と目を開けて後ろに振り向く。そこには、岩崎翁が立っていた。
「間に合って良かった・・」
「えっ、いつの間にどうして?」
岩崎翁は、私たちが東京へ帰った後に、ゆかりのあるお寺に邪鬼払いを依頼していた。木札ができたので福沢准教授に連絡したら、すでに私が岬へ行ったことを聞き及び急いでやって来たという。
岬に来ると、お堂の前で危険な状態にいる私を見つけ、急ぎ扉の中に木札を投げ入れたのだ。
「助かりました。一時は諦めましたが・・。いや、怖かったです」
「それで、あの子に会えたのかな?」
「はい、会えました。無事に彼岸へ渡りましたよ」
「そうか、それは良かったのう。これで、あの子も成仏できる。大河内さんのお陰じゃよ」
ふたりはお堂の前で手を合わせる。日本海に沈む夕日を後にして、岬を下りた。