忘れ水 幾星霜 第六章 Ⅴ
病院の外に出ると粉雪が舞っていた。頬を掠める雪が体温でスッと溶ける。輝明は空を見上げた。暗い空間から無数の白い塊が、彼を目がけて落ちてくる。その一つ一つが千香の記憶に思え、輝明は瞬きもせずに白い塊を目で追う。
家に帰り、疲れた体をソファに投げ出す。輝明は抑え切れない心の苦痛を、唯一支えてくれるブラジルの亜紀に電話をした。
「ボクだけど・・」
「輝君? その声の響き・・、千香のことね?」
「うん・・。今、病院から戻ってきた」
「えっ? 輝君の家に一緒じゃぁないの?」
彼は、朝からの経緯を説明した。
「そうなの・・、でも、思い出のある場所を、千香に見せることができたのね」
「うん、見せられたけど、本当は歩いて確かめたかったと思うよ」
「輝君、それは千香自身が承知している。歩けない自分を・・。だから、輝君は思い詰めないでね」
「確かに、千香ちゃんから言われた。辛い表情を見せるなって・・」
千香のあの言葉は、彼の心の奥底に植え付けられ、決して枯らさないと心に約束する。
「私だって、あなたに同じことを言うでしょうね。本当に辛く悲しんでいるのは、千香本人だもの」
亜紀は、輝明と知り合った頃から、千香の愛が彼に向いていると感じていた。ただ、口には出さなかった。千香の愛と自分の愛は、異質なものと信じていたからである。
「明日、主治医から詳しい説明がある。予想以上に進行しているようだ」
「・・・」
「それで、いつなの?」
「ああ、今日の午後に、マルコスのビザが出るそうよ。だから、直ぐに行けるわ」
「良かった。到着日と時間を知らせてね。待っています」
「ええ、輝君! しっかりしてね。あなたが辛い思いをすると、私も辛いわ」
「うん、分かった・・」
輝明は毛布にくるまり、エアコンの暖房を切らずにソファで寝てしまった。翌日、目が覚めるとシャワーを浴び、朝食を済ませてから病院へ行く。昨晩の雪は積もらず、幸い天気は良かった。
千香は起きていたが、虚ろな目で天井を見詰めている。輝明は、ベッド横の折り畳み椅子に座る。
「千香ちゃん、夜に雪が降ったけど積もらなかった」
「そう、雪が・・、見たかった・・、わ」
「ちょっと待ってね」
彼は日陰の芝に残る雪を、ビニール袋に入れて病室に持ち帰った。
「はい、千香ちゃん。雪だよ。触ってごらん」
「う~ん、冷たい。でも、降っている雪が見たかったの・・」
「そうか、次に・・、見せるね」
《千香ちゃんに、確かな約束ができるのか? お前は・・》